2017年1月17日火曜日

経済学入門 A6106 A判定

「市場主義にもとづく地域再生の道」と「市民の共同の経済である財政による地域再生の道」の二つの違いについて、具体的事例にもとづいて説明せよ。

はじめに
地域社会は激しく動揺している。その最大の原因は工業の衰退にあるといっていいだろう。しかも1990年代から企業が工業立地を日本からアジアに急速にフライト(逃避)させてしまったことが拍車をかけている。このように工業が衰退すると、地方都市の商店街も空洞化していく。もちろん地方都市で工業も商業も衰退していけば、地方都市の財政も破綻してしまう。地方都市の財政が破綻すると、生活環境を保護する地域社会の共同事業が実施できなくなる。そうなると、工業によって荒廃した生活環境がさらに悪化してしまい、地方都市は人間が生活できるような都市ではなくなってしまう。こうして、本来人間が集住する「場」である都市から人間が流出していく。そのため地方都市は荒廃し、激しく揺れていくことになる。こうした地域社会の動揺は日本に限ったことではなく先進諸国に広く見受けられる共通の現象といってよい。さらに地域社会が揺れている原因が工業の衰退という産業構造の変化と起因することも先進諸国に共通な現象ということができる。ところが地域社会が動揺しているという現象は先進諸国にとって共通な道だとしても地域社会をいかに再生させるかというシナリオは一様ではない。つまり地域社会再生のシナリオは大きく二つに二分している。一つは市場主義に基づく日本を含むアングロ・アメリカン型の地域再生のシナリオである。もう一つは市場主義にもとづかないヨーロッパ型の地域再生の道である。
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2.市場主義にもとづく地域再生の道とリスク
1で述べた地域再生のシナリオのひとつアングロ・アメリカン型の地域再生のシナリオは具体的に新自由主義にもとづく地域再生が1980年代の後半に中曽根内閣によって開始された例が挙げられるだろう。日本の財政の所得配分効果が小さいにもかかわらず、財政が所得配分配をやりすぎているがゆえに経済が活性化しなくなっているという新自由主義の思想が支配的になり、財政による介入を否定し、市場経済のあるがままに任せ、国民国家が経営している国営企業を民営化せよという政策・主張が声を大きくした。そこから中曽根内閣の政策はさらなる発展のため大都市重視のスタンスに変わっていく。工業化が軽工業段階から重工業段階へと進むと、重化学工業ではでは帰化設備が巨大化し企業規模が大規模化する。このように重化学工業段階では生産機能が、機械の生産機能と管理機能を担う工業都市とが分かれる。しかも管理機能は集積の利益があるため管理機能を集積する中枢管理都市が潤うのだ。
しかしそれ以前に大都市における過密問題の解消、地域間格差の是正が問題に掲げられていたはずであった。それは軽工業段階から重工業段階に進むにつれ原料立地的に散在していた都市が衰退していき、中枢管理都市が形成されるようになると巨大な中枢都市に人口が集中し、中枢管理都市の生活機能が著しく低下するからである。このような厳しい状況下で「民間活力」を導入するという新自由主義的政策思想に基づき社会資本の整備が推進されていく。こうして関西国際空港や東京湾横断道路などのビッグプロジェクトが花開き市場原理による都市再生はどんどん推進された。しかし市場主義に基づく都市再生はバブルという見果てぬ夢に踊る結果に陥っていく。ただでさえグローバル化や産業構造の変化は地域間格差を拡大するにも関わらず「民間活力」を導入した社会資本整備はそれを激化させてしまうからである。

3.市民の共同の経済である財政による地域再生の道
市場に基づかないヨーロッパの地方都市再生のキーワードは環境と文化である。工業によって破壊された環境を改善するとともに工業にかわる知識産業を地域に伝統的な文化を復興させることによって復興させることによってつくり出そうとする。ヨーロッパの都市再生の優等生と言われるストラスプールでは汚染された大気を浄化するために、市民の共同事業として次世代路面電車を敷設して自動車の市内乗り入れを原則的に禁止してしまう。もちろんこうした市民の共同事業は市民の共同負担によって賄われなければならない。ストラスプールでは次世代路面電車敷設という共同事業のために企業の支払賃金の1.75%まで課税できる交通機関税を導入する。前述のようにヨーロッパ都市再生では自然環境の再生とともに、地域文化の復興を目指そうとしている。しかもそれを国民国家の枠組みを超えた地域軸でヨーロッパに、そして世界に張ってbbしていく。ストランプールでいえばフランスとドイツの文化を融合したアルザス・ロレーヌの固有の文化の復興を目指す。ストラスプールとともに都市再生に成功した都市として並び称されるスペインのビルバオも汚染された水質浄化という自然環境の再生とともに伝統的なバスクの文化を再生しようとする。文化の復興は人間を成長させる教育の復興とも連動する。つまり文化復興の共同事業は教育振興とも融合する。ストラスプール大学には五万五千人が学んでいる。ストラスプールの人口は二十三万人に過ぎない。つまりストラスプール市民の四人に一人は大学生という事になる。しかも人間の生活空間として再生すると教育機関や国際機関も引き寄せられてくる。ヨーロッパ議会もストラスプールに設置される。さらにミッテランの地方分権政策の一環としてフランスの超エリート養成機関であるエナ(高等行政学院)もストラスプールに移ってきたのである。もちろんグーテンベルクやパスツールという偉人を生み出したストラスプールでは固有の文化に根差した研究機関も整備されバイオなどの研究が花開いていく。こうして「自然的、文化的、人間的」都市の魅力に輝かせたストラスプールは経済界の懸念をよそに都市経済も活性化させていく。自動車が侵入しない「人間が歩きたくなる」ような市街地の地価は上昇し高級ブランド店やフランチャイズ店が進出して商店街は活況を呈している。市場主義によって都市再生によって市街地の地価が下落し、かつ商店街が荒廃する日本の現状とは好対照をなしている。しかも人間的都市に優秀な人材が集結し新しい産業が芽生えストラスプールでは雇用も増加している。日本では市場主義に基づく構造改革が順調にすすんでいる証拠として倒産が相次ぎ、失業が激増している。こうした現状も好対照的だ。宇沢弘文東京大学名誉教授が指摘するように、ヨーロッパ都市再生の秘密は市民が共同負担に基づいて共同事業を実施できる財政上の自己決定権にある。市民が支配する財政によって市民の共同事業を実施できる都市再生が実施されれば大地の上には人間の生活が築かれることとなるだろう。

4.日本のこれから
日本は20年ほど前「民活」の名の下に市場主義にもとづく都市再生を志した。そしてバブルという一枕の夢をみることも経験した。夢からさめれば「失われた10年」と破局への道が待ち構えていただけである。ところが失敗に学習することなく今また市場主義に基づく都市再生が展開している。このままでは大地の上から人間の生活は奪われ無機質な「死せる都市」が誕生するだけだ。今こそヨーロッパの都市再生に学び市場という「神の見えざる手」ではなく財政という「人間の見える手」で市民の共同事業として都市再生を図るべきなのではないだろうか。もちろんそのためには市民が財政上の自己決定権をもたなければならないし、国税から地方税への減税移譲が有効であり絶対条件だ。国民国家が成立する以前にその地域社会がはぐくんできた地域文化の復興を目指すのを忘れてはいけない。そしてこれは地域経済の復興にとどまらず未来の「人間の歴史」を描くビジョンなのである。


参考文献 地域再生の経済学 豊かさを問いただす 神野直彦著 中公新書

経済学入門 A6106 A判定

第一設題 サッチャー主義にはじまる「新自由主義」ないし「新保守主義」政策について、その基本思想と具体的政策およびそれがもたらした事態について述べよ。

1.はじめに
サッチャーが政権を握る以前、イギリスにおいては国有化が大規模に始められ、それは多くの国の国有化に影響を与えてきた。このイギリスの国有化は第二次世界大戦後すぐに成立した法律によってその枠組みが作られた。そして労働党が国有化を推し進めようとし、保守党がそれに反対してきたのは事実であるけれども、戦後の国有化の実施過程を見ると名目上ほど対立していたわけではない。すなわち石炭・ガスにみられるように当時これらの産業は困難な状況にあったので、民営のままでは無理と見られていた。そのため、保守党はほとんど反対しなかったのである。しかし、多くの国有企業が効率性に欠け従業員の福祉をも達成していないという認識が一般の人びとにあった。また、これらの原因の多くが国有企業の活動に対する、絶えざる政治的干渉に帰せられるという一般認識も広くあった。

2.サッチャー主義の基本思想
サッチャーは先に述べた状況に対して、全面的改革を掲げて戦いを挑んだ。彼女は公共投資によって雇用を創出し財政出動によるコントロールを重視する経済政策を社会主義計画経済であり、社会保障や福祉政策の拡充による「大きな政府」が経済の発展を阻害すると考え、できるだけ財政出費を抑え資本主義本来の市場原理で自由競争を保障する必要があるという「新自由主義」(新古典派、または経済政策は財政によるより通貨の供給を通じて行うべきであるという考え)の経済政策を採った。また、財政支出の中で大きな負担となっていた社会保障費の削減を強行したのである。このようにサッチャリズムとよばれるサッチャー政権の経済政策思想は経済活動の停止(不況)という現象を前になすべきもなく立ちすくんでいた当時のケインズ的福祉国家を根底から批判し、民営化、規制緩和、行政改革による「最小限国家」を主張する。ケインズ的福祉国家こそインフレーションや生産性の低下を招き、完全雇用さえ維持することすら不可能となっていると批判したのである。サッチャリズムは古色蒼然とした自由主義思想の復活を示していたが、この経済思想が「18世紀から9世紀に採用された自由主義的政策こそ大英帝国の栄光をもたらした」とイギリスでは幼いころからいやというほど脳裏に叩き込まれていたことから熱狂的支持を得ることになった。

3.サッチャー政権の租税政策
当時、フランスの経済学者フーラスティエが「栄光の30年」と名付けた第二次世界大戦の高度成長は、晩鐘を鳴らしていた。第二次世界大戦後に先進国がケインズ的福祉国家をめざしつつ実現してきた高度成長の時代は終わり、生産性上昇率も低下傾向をたどりはじめていった。失業率も高い水準のままであるばかりか、物価上昇も加速していく。経済停滞の下でのインフレーション、つまりスタグフレーションが生じていたのである。サッチャー政権が挑まなければならなかった政策課題はスタグフレーションの解決であり新自由主義の政策思想によって課題に対応しようとした。政権が成立した1979年以降の消費者物価の動向をみると政権成立とともに急速に低下に向かい90年までつづく政権下では安定的に推移していく。したがってサッチャーはインフレーションの抑制という課題に対してはその解決に成功したと評価できる。しかしインフレーションの抑制の結果には皮肉にも新自由主義への背教の結果なのである。サッチャーは政権前の35.2%から約40%へと、租税負担率を引き上げた。つまりサッチャーは「最小限国家」という小さな政府を新自由主義の政策思想として掲げながら租税負担率を増加させることによってインフレーションの抑制に成功したのである。しかし、新自由主義の経済思想からいえば、租税負担率を引き上げれば経済停滞を招くはずである。スタグフレーションこそケインズ的福祉国家の産物である、と批判する新自由主義の経済思想からすれば、インフレーションとともに経済停滞にも挑戦しなければならない。ところが租税負担率を上昇させることは、そうした新自由主義の経済思想に背反することになるだろう。サッチャー政権が採用した経済活性化のための租税政策は、租税負担率を引き下げることではなく、負担構造を変革する内容であった。具体的には、租税負担を富裕階層から貧困階層にシフトさせることによって経済活性化を果たそうとしたのである。そのため所得課税から消費課税へシフトさせていく。サッチャーは1979年の税制改革では2583%の11段階の税率で課税していた所得税を最高税率に引き下げ、2560%の七段階で課税する税率構造に改めた。さらに88年には所得税の最高税率を60%から一挙に40%にまで引き下げ、そのうえ税率の段階にも25%と40%という二段階にするという画期的な改革を実施したのであった。

4.サッチャー政権の租税政策の結果
3のように租税負担構造を変化させることによって、経済が活性化したかという問題については労働生産性は生産高でも製造業でも上昇したデータがある。このかぎりでサッチャリズムは製造業を含め、労働生産性の向上に成功したと言えるだろう。しかし産出高の成長率ではサッチャー政権期を含む1979年~1995年は全産業だと平均1.8%である。60年~73年の全産業産出高の年平均成長率は3.2%にも達しているのだ。しかも、1979年~1995年の製造業の年平均成長率はわずか0.3%にすぎない。1960年~73年の製造業の産出高の年平均率は3.1%であり明らかにサッチャー政権下での製造業の産出高は下降傾向にある。つまり労働生産性は上昇したけれども、産出高をみると下降傾向にあり、特に製造業で著しいという事だ。サッチャー政権下の生産性向上は技術革新を基軸とする積極的な設備投資の拡大よりも消極的な減量経営の成果として生じていることを意味している。これにより、イノベーションに果敢にチャレンジした企業が報われたのではなく、容赦なく人員整理した「無慈悲な企業」の勝利だったとわかる。

5.国営企業の民営化
サッチャー政権は減税をして小さな政府を目指したのではなく、国営企業の民営化を推進して、小さな政府を目指した。1979年の英国石油にはじまり、航空宇宙、道路輸送、自動車生産、通信、航空、空港、鉄道、鉄鋼、水道、電力石炭などほとんど国有産業で民営化が行われた。これにより多かったストが減り、労働生産性は向上をたどる。また政府が放出した株式は従業員持ち株制度を通じて従業員にかなりの部分保有され一般国民の多くも株式保有者となったのである。また政府も株式の売却による多額の財政収入を得た。しかし、公務員の数は半分以下になり、貧富の格差拡大や犯罪の激増などのあらたな問題も浮上してしまった。


6.サッチャー政権がもたらしたもの
上記で述べたようにインフレーションの抑制と生産性向上に成功する裏では失業率が増大する事態が起こった。もちろん、倒産件数も増加し、1979年~1992年に倒産件数は驚くべきことに五倍にも達していたのである。失業や倒産が増加し、しかも租税負担を富裕階層から貧困階層にシフトさせていけば所得間格差は拡大しサッチャー政権が成立すると所得不平等度は以前と比べ急激に悪化しいずれの先進諸国をも上回った。こうして新自由主義は人間の生活を破壊し、人間の生活をおびやかしていく。しかも市場経済によって破壊される恐れのある人間の生活を保護する指名を担っている財政をも破壊してしまうのである。サッチャー政権下では物的資本および人的資本としての社会整備がすすまなくなり研究開発、教育訓練、職業訓練で他の先進国に後れをとることになった。後にこの時代の新自由主義は財政が所得再分配政策や社会福祉政策こそ家族や地域社会の協力を阻害しているとし、人頭税を導入したが市民からの大暴動によりイギリスではサッチャーとともに新自由主義の経済思想は行き詰ることとなった。


参考文献:人間回復の経済学 岩波新書 神野直彦著

哲学入門 A6106 A判定

第一設題 全6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ(1,600字ほど)。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。

 第四章「現定と無限」納富信留  要約
『プラトン主義』を焦点に、その源流である「ある(存在)」と「なる(生成)」についてのプラトンの思索を検討する。プラトンの哲学は、先行するギリシア哲学との対決を通じて確立され、生成する世界の把握はヘラクレイトスの「流動説」への徹底した批判から確保された。ではまずプラトン哲学とはいかなるものか。それを知るには「イデア論」といわれる形而上学を理解しなければならない。簡単に言えば「イデア」とはプラトン哲学の中心概念で、真の実在とでもいうべきものだろう。これは感覚世界の本質ともいえ、理性によってのみ認識される。つまり、本当に実在するのはイデアであり我々が肉体的に感覚している対象や世界とはあくまでイデアの「似像」にすぎないのだ。

そして先に述べた「ある(存在)」「ない(成生)」についてのプラトンの思索展開には三つの特徴がある。
①ロゴス中心:「言葉(ロゴス)」に徹底的に定位して探究する態度。独立した存在や事物を言葉がとらえるというのではなく、言葉がそれらを成立させていると考える、これは論理や法則から現実を捉える思考の基盤となる。
②絶対性・超越性:相対主義に対抗して心理の絶対性を確保し絶対的な根拠が私たちが生きるこの世界を超越していることを捉える。この見方は現象と実在の二次論の形をとることが多い。
③数学重視:学問知識の典型として数字を重視し数学的対象(数、図形、法則)を絶対的な存在理解への導入・モデルとして扱う」。数字がこの世界の現象の把握に決定的に重要であるという見方もこれに含まれる。
プラトンは上記三つの思索展開を持ちながら、先人の思想家、特にヘラクレイトスを批判した。ヘラクレイトスの主張は「万物は流動する」といった流動説を唱え、また万物は根源的実体である火の変化したものだといい、ロゴスは火であるとも言った。つまり世界のあらゆる事物の始まり・根源を「アルケー」という概念で示すがヘラクレイトスはこれを火としたのであった。この生成論に対してプラトンは「言葉」によってこそ生成変化は成り立つと考える。言葉がなくなってしまえばあらゆる事態が成立せず、生成変化すらなくなってしまうということは生成変化自体が「言葉」なのではないかという考えに至ったのである。変化する事態は事物ではなく、まさに言葉による変化以外の何物でもない。このようにプラトンは「言葉(ロゴス)」を生成論の中心にしたのであった。
 プラトンは「ある」こそが「なる」に先行し、それをなりたたせているという。なぜかといえば言葉が捉えて成立させるのはなによりもまずこの「ある」という事態を捉え、そこから「なる」にしかならないとプラトンは考えたからだ。徹底して「ある」に根拠を求めるプラトンはヘラクレイトスの批判と同時にパルメニデスを極端な論理であることからソフィストたちの相対主義の基礎づけに利用される危険を孕んでいたことを危惧し、批判的に継承することで「形」の把握の立場に至る。パルメニデスの主張は「ある」は一であり、一切の生成変化を被ることもないとし「一元論」と呼ばれるものである。しかしこれをプラトンは「ある」を「一」とあげながら「ある」と「一」という二つの名前を用いることで純粋な「一あり」という立場にならず、「一」という名前が指すものと仮に同じであったとしてもここで二つの名があり、しかも「名」もまたそれが指す対象とは別に「ある」ことには、「ある」について「言葉」で語ろうとする限り「ある」の微の多様性や、また「微」をもつという特徴自体に矛盾が発生するとした。またパルメデスの「ないは、ない」といい「ないから、あるへの変化」を否定しているのもかかわらず「ないは現表不能で「ある」」というように「ある」を付け加え混合させ自己矛盾を犯している点、限定されたはずである「ある」は「全体」が連続である以上、限定された「ある」は「多」を被り「ない」を内包している点も批判した。プラトンは真に「ある」を捉えようとすると、そこにみてとれるのは「ある」と「ない」の適切な関係、およびそれに基づいて結合され区別される諸イデアの全体、つまり真に「ある」世界をロゴスで表現し反論したと考えられる。

 プラトンはこのように終始言葉による認識を追求する。その一方で「ピュタゴラス派」の影響を大いに受けた。ピュタゴラス哲学の教説は霊魂の永続と輪廻思想、数学を根幹とした世界観などである。ピュタゴラスは「数」に特別興味をもち世界の根源は「数」であるいい、一切は奇数と偶数で示されるとした。また万物も「数」で一切の表現ができるという。プラトンは彼らの教説を取り入れ自らの「イデア」論に反映させていった。とりわけ「数」と「調和」の宇宙論に積極的であった。彼は「ある」や「ない」といった不思議な事実に様々な観点から向き合い、そこで徹底的にロゴスにおいて考え抜こうとしたのである。

英米文学概論 P6101 A判定

第二設題:エマスン、ソロー、ホイットマン、ジェイムズ、ドライサー、フロスト、パウンドについて述べなさい。

エマスン(18031882年)
1836年の評論「Nature」において超越主義哲学を世に打ち出した無教会主義の先導者であった。この「自然論」は前半では主として自然を、後半では人間の精神を論じ自然は精神の象徴であり、事物と人間の思想との間には対応関係があると指摘し、感覚を超越した直観による真理の把握の必要性を説いたものである。エマスンにとって自然は、自己と宇宙の真理に至るための「理性」によって征服されるべき対象であり、人間がその前でおののき、自己の卑小さと、非力さを徹底的に思い知らされる驚異の対象ではない。彼は西洋文明の伝統からもアメリカ宗教の伝統からも自己信頼によって独立できると説き自然は思想の化身であるとして自然を神の意志の表れと見たのである。この本には真理は経験を超えた直観によって把握されるとする彼の超絶主義の中心思想が述べられている。エマスンの説く超絶思想は一見難しそうにみえるが、彼の講演が一般の人からも広く求められたのはどのように悪いことをしても償いにより救われる、とするその楽天思想のためであった。このために彼は当時もっとも尊敬される講演者であった。

ソロー(1817年―1867年)
1845年7月から2年後の9月まで、自分で2か月余りかけてウォルデン湖北岸の森の中に建てた小屋で野草を食べ、魚を取り、自然を友として生活し詳しい日記を書き晴耕雨読の日々を過ごした。8年後、このときのことを書いた本が「森の生活」として出版された。これは18章からなり森の生活を具体的に記しつつ彼の思想を集大成したもので人間は衣食住の必要最低限の生活をすることによっていかに心の豊かさを得ることができるかを示す。彼は「深く生き、人生の真髄を吸い尽くすため詩情溢れる記録は個人の尊厳を描いた書でありその後アメリカ人生活に最も大きな影響を与えた本のひとつとして愛読されている。また人頭税不払いのため投獄されたことによることがきっかけで個人の尊厳を尊重する活動も行っていた。彼は若いうちから測量術と植物学をマスターしていたが30代になってインディアンの民俗学的研究もはじめた。残念なことにこの「詩人哲学者」は肺病のため体が弱っており、出版準備中に45歳で死んだ。存命中に出版された全20巻に及ぶ著作は彼が大作家であることを示している。

ホイットマン(18191892年)
ホイットマンの詩は詩からぬリズムでルポ調の語り口を用いて、野性的で官能的であることが特徴である。ニューヨーク州ロングアイランド出身で教育も満足に受けられないまま11歳でブルックリンの法律事務所で働く。このころから文学を読むことの喜びを知り始めたが翌1831年に新聞植字工見習となりほぼ20年に及ぶジャーナリスト生活が始まる。奴隷制問題などをめぐって激しい抗争の渦中にあった当時のアメリカ社会の中で、ホイットマンは一貫して民主党進歩派の立場を守ったとされる。彼の文学における思想的にはゲーテ・ヘーゲル・カーライルらに心ひかれ、特に発表間もないエマスンの超絶思想に共鳴していたとされ、自身が活字を組んでつくった詩集に関してはエマスンからアメリカで生まれたもっとも驚くべき作品という賛辞を得た。13の編の詩を含む『草の葉』は内容も詩形もアメリカの詩を英詩から独立させる記念碑的作品であった。ホイットマンは健康な肉体を賛美し、タブー視されていた性愛も遠慮せずに堂々と歌っている。肉体と魂はきりはなせないものとしてとらえ、社会的制約にとらわれずに霊肉一致をたたえた。しかも1行の音節数とか韻とか無視して型にはまらない自由詩をつくりだしたのである。

ジェイムズ(18431916年)
ヘンリ・ジェイムズはアメリカとヨーロッパの対比を描く国際小説を得意とする。彼の作品は長年ヨーロッパに住んでヨーロッパ的考え方を身につけているアメリカ人とアメリカで育ってヨーロッパを旅行中の無邪気なアメリカ人との間のあつれきを主題にすることが多かった。ローマに絵の勉強に来ているアメリカ人を主人公とする処女小説『ロデリック・ハドソン』からこの主題は扱われている。ジェイムズはたくさんの有名な小説を世におくりだした。まず彼の文名を高めたとされるのは「Daisy Miller」である。この作品ではアメリカ人の最大の美点は無邪気さであり裏のない明るさであることを表している。この点を忘れてヨーロッパ人の眼から非難する同国人のいやらしさを描いた。そして、最初の傑作とされる「貴婦人の肖像」ではヨーロッパにいってあらゆるヨーロッパの可能性を眼にした「無邪気な」アメリカ娘が経験を通じてひとまわり大きく賢い人物になっていく様子が描かれている。ジェイムズは他にも短編小説も数多く出版したり、40代には劇作も手掛け幅広く活動していた。この時期の小説では「メイジィの秘密」や英文学史上最も奇怪な物語のひとつとして「ねじの回転」もよく知られる。

ドライサー(18711945年)
ドライサーは一家の貧しさもあり16歳で社会にでて幅広い社会経験を培うと同時に、現実社会を科学的に把握する方法論を学んだとされる。1900年、中西部の田舎からシカゴにでてきた貧しい娘がニューヨークで女優として成功するまでを描いた『シスター・キャリー』で作家デビューを果たし、1925年には自身の代表作となる『アメリカの悲劇』を発表した。貧しい青年が出世のために恋人を殺害してまで上流階級に登ろうとするが結局は環境に弄ばれ死刑になるまでを描いたこの作品はアメリカ自然文学の最高傑作とされた。ドライサーは貧乏人の子として50代半ばにしてやっと大作家として認められた。彼の小説は決してよみやすいものではないがその細部を描き出す写実的な文体によって20世紀初頭の最も重要な作品になりえたのである。

フロスト(18741963年)
サンフランシスコに生まれ、イングランドに移った後、ダートマスやハーバードに在籍し学生時代からさまざまな詩を書いた詩人。さまざまな仕事を経験したが詩をかくことが彼の楽しみとなっていた。フロストの処女詩集「少年の願い」では草刈りなど農村生活の息吹きを抑制のきいた語り口調で語り、アメリカ人のもつもっとも基本的な倫理観を根差したフロストの詩の特徴がよく表れている。翌年、同じくロンドンで出版された「ボストンの北」はパウンドから高く評価され、これで農民詩人フロストの名がアメリカでも知られるようになった。1945年、41歳のフロストはアメリカに住み40年にわたる彼の後半生は輝かしいもので、アメリカ人の心をアメリカの言葉で歌ったフロストの詩は全国民に愛唱された。

パウンド(18851972年)

パウンドの作家人生は23歳の年にアメリカをでてヨーロッパにわたり「消えたともしび」をヴェニスで自費出版したことからはじまる。詩集や評論集を毎年のように出版し、25歳という若さで彼は有名人であった。一人っ子としてそだったにもかかわらず彼には親分肌な性格があったといわれる。当時Imagismといわれる運動がおこっておりこれはヒュームの美学論に基づく、反ロマン主義の自由詩運動であったが、日常の言葉を使い、新しいリズムをもった詩形をつくりだし、かたく明晰な文で自由に主題を選んで書くことをモットーにしていた。パウンドは英米の詩人に働きかけ「写像主義者」を出版した。一方アメリカに向けてはシカゴの詩誌を通じてエリオットをはじめ、ジョイス、フロスト、タゴールらを紹介した。こうしてパウンドは20世紀英詩に他の誰よりも大きな影響を与える人物となるのであった。第一次大戦が終わるころパウンドは批評家からも悪評を受けるようになりイギリスに幻滅をかんじるようになったといわれる。このような気持ちの時に書いた『ヒュー・セルウィン・モーバリ』でこれはエリオットの「荒野」を超える作品とされた。そしてのちに「荒野」はパウンドにより大幅に手を加えられ著者から20世紀最大の名作をささげられた。

英米文学概論 P6101 B判定

第一設題 『ベイオウルフ』、チョーサー、スペンサー、ダン、スウィフト、ブレイク、テニスン、ワイルド、フォスター、モームについて述べなさい

『ベイオウルフ』
『ベイオウルフ』はイギリス最古の作者不詳の叙事詩と呼ばれる、主人公の偉業を格調高い言葉でつづった朗唱物語で、長い間語り継がれてから文字にかきとめられるものである。約3000行と古英語文献の中で言語学上最も長大な部類に属することから言語学上も貴重な文献である。現在ロンドンの大英図書館に保管されているコットン古文書に一部残っている写本は10世紀のものと推定されるがこの詩はすでに八世紀には完成していたと考えられている。物語の特徴として主人公の戦う相手は生身の人間や部族でなく、怪人、魔女、竜といった空想の存在であり史実の戦争の記録ではなく、実在した英雄の異形を讃える英雄詩とも違う。また本来ゲルマンの英雄叙事詩であったとともにあとからキリスト教的な表現が組み込まれており、古き良き伝統と新しい宗教が入り混じる時代の作品であったと読み取れる。

チョーサー(1340年頃―1400
英国の詩人。「英詩の父」と呼ばれ、ロンドン英語を文学的標準語の地位につけた人物。鋭い人間観察と寛容なユーモアにより、中世ヨーロッパの物語文学の集大成ともいうべき『キャンタベリ物語』を発表。幼少のころから宮廷に出仕し、長じて軍人、外交官、税関監督、代議士等々の公職をれきにんしており、こうしたいわば高級官吏」としての多彩な経歴から得た人間理解の深さは後期作品のリアルスティックな人間観によく表れている。チョーサーの人間を見つめる眼はしばしば鋭い風刺を発揮することもあるが、総じて寛容なユーモアに満ち人間の思想や行為の価値をさまざまな視点から見つめている。このような価値観を持ち合わせるチョーサーが嫌ったものは硬直した精神から生じる事大主義であった。人間の思想であれ、行為であれそれが誠実の仮面の下に独善に陥ったと見たときチョーサーは笑いものにしていることが文献からわかる。

スペンサー(1552年頃―1599年)
イギリス、ルネサンス期を代表する詩人の1人である。彼はチョーサーを敬い、英語による牧歌という新機軸の可能性を追求し『妖精の女王』を含むいくつかの作品でスペンサー連という詩形を残し構成の詩人の念頭を去ることはなかった。スタンザの主な韻律は弱強五歩格で押韻構成は「ababbcbcc」である。最後の行は6韻脚ないしは強勢をもつ六歩格である。このような行はアレクサンドランとして知られている。スペンサーの発明はイタリアの詩形の八行詩体から影響を受けていると唱える学者もいる。また後期の作品で叙事詩をかくようになってからも最後まで牧歌を手放すことなく詩人としての自己の位置を見定めるツールとして牧歌を用いた。仕事にしていた官僚と詩人、公の詩人と私の詩人、英詩における先達チョーサーとのかかわり、パトロンや権力者とのかかわり、こういったすべての問題がスペンサーの牧歌に包含されているのである。

ダン(15731631年)
彼は英国の詩人で聖職者としても活動しており、大胆な機知と複雑な言語を駆使した17世紀の形面上派詩人の中心的存在であった。オックスフォードやケンブリッジの両大学で学びながら両方卒業していないのは旧教信仰のためであったとされる。ロンドンの法律院で法律を学ぶかたわら若い宮廷人たちと交わり自由奔放な詩を書いてもてはやされた。リベルタン(自由思想家)とよばれる詩風の恋愛詩や風刺詩が特徴。ダンの詩のほとんどは生前に発表されず、原稿によって友人たちに知られていたが若いころの愛の詩も後年の宗教詩もきわめて個性的であった。代表作は『蚤』『日の出』といった唄とソネット、『死よ驕るなかれ』の一説で知られる『聖なるソネット10番』や『冠』といった宗教詩がある。

スウィフト(1667年―1745年)
アイルランド生まれで作家である。幼いころから家庭環境に恵まれず、ダブリンのトリニティカレッジを出て、政治家の秘書、牧師の職につき当時の政治、宗教界を風刺する『桶物語』や古代と近代の優劣を論じて前者を支持した『書物戦争』を書き、攻撃的な風刺作家として本領を発揮した。また1726年に発表した『ガリバー旅行記』は小学生から政治家までが読むベストセラーとなった。これは七年前にでた『ロビンソンクルーソー』に対抗して書かれたもので四部作の冒険物語の形をとって全く違った視点から見た場合の人間のおかしさを風刺したものである。そして当時流行した冒険物語に形を借りた透徹した人間風刺であり、家庭的なあたたかさを知ることの少なかった作者のするどい筆致は本書をすぐれた人間洞察の書としている。

ブレイク(17571827年)
18世紀から19世紀にかけてのイギリスの詩人、画家。ブレイクは詩の才能はもちろん、絵の才能ももちあわせていた。この才能はダンテやシェークスピア、聖書などの独自解釈の挿絵を制作すると同時に「無垢の歌」「経験の歌」「天国と地獄の結婚」などの詩や「四人のゾアたち」「ミルトン」「エルサレム」などの預言書にいかされた。この中の「ミルトン」の序詞「あの足が」が1918年にヒューバート・パリーによって音楽がつけられたものが聖歌『エルサレム』としてまたは事実上のイングランドの国家として現在のイギリスでは有名だ。古代ブレイクの詩と絵は当時はまったく認められず貧困のうちに生涯を閉じたがいまや世界的にも人気があり、かれの研究をしている学者は少なくない。

テニスン(1809-1892)
イギリスの詩人でヴィクトリア朝の時代精神を先取りし進化論徹科学思想と宗教のモラルとの間に生まれる懐疑と不安を表したとされる。彼の代表作『インメモリアル』は彼の最愛の友であったA.ハラムの死に対する悲しみを十年の年月をかけてつづったテニスンの代表作であり、この本の出版により詩人としての地位を確立し、その後ウィリアムワーズワスの後任として桂冠詩人としての役目も果たした。

ワイルド(18541900年)
イギリスの詩人。ロンドンで風変わりな服装をした彼の芸術至上主義的言行は常に世間の耳目を集めていた。彼の唯一の小説「ドリアングレイの肖像」は芸術至上主義の代表作となり、また劇においても才能を発揮する。彼の最後の劇「真面目が肝要」は風習喜劇の傑作とされた。同性愛の罪で投獄された際の申し開きのため獄中でかいた手紙を集めた「深渕から」は彼の芸術論を知るために重要である。

フォスター(18791970年)
イギリスの小説家。フォースターの作品には世俗的なヒューマニストとしての視点があり彼の作品にはしばしば有名な題辞である「社会の毛辺を越えて」お互いに理解し合おうとする人物が特徴になっている。フォースターの最も有名な二つの作品「インドへの道」と」「ハワーズ・エンド」は階級の違いによる相容れなさについて試した作品といえるだろう。特にインドへの道は植民地に住むイギリス人の思い上がりを描いたこの作品はフォスターの代表作だ。90歳で死ぬ前年、メリット勲章を授けられた。

モーム(1874年―1965年)
フォスターと同時代活躍した小説家。23歳の時に医師免許を取得するも翌年からパリにて文学に没頭した。病院時代の苦しい経験に基づき処女小説「ランベスのライザ」をだし、その後は書いた劇が次々と上映され好評を博した。小説家としては自伝小説「人間の絆」によって認められ、以後モームは世界的な人気作家になった。画家ゴーガンを思わせる主人公ストリックランドの一生を描いた「月と六ペンス」はタヒチ旅行で取材した名作である。またモームの最高の作品とされる「お菓子とビール」はハーディらしい文豪の妻を主人公とする喜劇小説である。モームは短編小説の名手として知られサモア島の宣教師の自殺を描く「Rain」などは英文学最高の傑作とされた。「The summing up」に自ら書いているようにモームは二流のトップの地位を占めついに一流作家と認められることはなかった。

参考文献

イギリス・アメリカの文学史 作家のこころ 南雲堂 福田昇八著

日本国憲法 A判定 A6109

法の下の平等について

1.はじめに
憲法とは国家の組織や権限、統治の根本規範となる基本原理・原則を定めた法規範をいう。また、法規範ではなく国家の政治的統一体の構造や組織そのものを指す場合もある。日本国憲法十一条は国民すべての基本的人権を享有すること、この基本的人権は永久不可侵の権利として現在および将来の国民に与えられることを定めている。ここには人権がすべての人間の生まれながらの権利として国民に与えられたものであり、法律をもっても奪うことのできないものであるという本質が明らかにされている。さらに九十七条には人権を保障する条文が書かれているが、この条文は最高法規という章に含まれている点からみて憲法における人権の保障は国家の最高ルールであり核心といえる。以下より憲法の歴史を振り返るとともに設題について論じる。

2.日本国憲法の成立と歴史
日本において、法の下の平等という認識が国民に強く根付いたのは、日本国憲法の成立とともにある。それ以前の憲法、つまり明治憲法においても、平等に必要な人権を人々に与えられている。しかし、当時の人権は天皇という絶対的な権力の下に国民が恩恵を受ける、といった考えに基づいて定められた人権であり、華族の特権や男女の不平等が目立ち、十分に平等や自由を与えられることは実現されなかった。そして第二次世界大戦において日本は敗戦国となり、ポツダム宣言の受諾によって華族制度や君主制度といった明治憲法の反民主的要素を改正することとなり新たな憲法として日本国憲法が成立した。憲法が規定される衆議院総選挙では、圧倒的多数で日本国憲法を支持していた。このことから国民が自由や平和、平等を求め望んでいたことが計り知れる。そして日本国憲法は明治憲法から一転して第一の原理は国民主権に変わった。国民が国政の最高決定権者であり、国家の権力行使を正当付ける権威も国民にある。徹底して国民の人権の保障を規定することとなった。

3.自由と平等
人権の保障は日本国憲法の三つの基本原理のひとつである「基本的人権の尊重」として位置づけられており、書かれているさまざまな基本的人権の尊重は、歴史上それが侵害されてきたことを示し、これからの将来において基本的人権の侵害を許さないことの決意表明である。そしてまた憲法は自由を基礎としている。人間は自由にものを考え、様々な思想、信仰をもち、人間同士互いに伝え、表現しあう。それら自由な精神活動は憲法が規定している政治の仕組みを働かす上では不可欠なものである。よって憲法は、思想・良心の自由、信仰の自由、表現の自由、学問の自由をそれぞれ保障しているのである。このような自由の観念は、自由権の保障に基づき、この自然権を実定化した個人の尊厳の原理は憲法の中核を構成する根本的な要素である。ここで、日本国憲法141項より「すべての国民は、法の下に平等であって、人権、信条、性別、社会的身分または門地により政治的、経済的または社会的関係において差別されない」とし、平等の原則を定めている。そして「法の下に」平等とは、法そのものの内容も平等の原則に従って定立されるべきだ、という法内容の平等を意味する。法の下に「平等」とは各人の性別、能力、年齢、財産、職業または人と人との特別な関係など種々の事実的・実質的差異を前提として、法の与える特権の面でも法の課する義務の面でも、同一の事情と条件の下では均等に取り扱うことを意味することである。
平等の理念は自由とともに、個人尊重の思想を基礎とし、常に最高の目的とされてきた。

4.平等観念の歴史
十九世紀から二十世紀の市民社会においてすべて個人を平等に取り扱い、その自由な活動を保障するという形式的平等(機会の平等)は、結果として個人の不平等をもたらした。資本主義の進展に伴い、持てる者はますます富み、持たざる者はますます貧困に陥ったからである。二十世紀の社会福祉国家においては社会的・経済的弱者に対して、より厚く保護を与え、それによって他の国民と同等の自由と生存を保障していくことを要請する平等の観念を、実質的平等(結果の平等)という。このことから、平等の理念が歴史的には形式的平等から実質的平等をも重視する方向へと推移していると言える。

5.合理的差別の判例
形式的平等から実質的平等に推移した具体的な事例として収入の多い高額所得者に累進的に高率の所得税を課する、累進課税制度が挙げられる。この方式を用いて、富を一部の階級に集中させず社会福祉にあてることで国民全体に分配されることとなり、実質的な平等を実現に近づけることができる。しかし累進課税方式を経済的強者の立場から見れば、法の下の平等が崩れ差別を受けることになる。これが合理的差別である。このことから人々に自由を与えることによって平等が遠ざかり、平等を実現するために自由が規制されているのがわかる。

5.実質的平等と合理的差別
上記で述べたように完全なる平等は自由を制限し束縛し、完全なる自由は平等が失われてしまう。人間は具体的に差異がある以上、それを法が一切無視して均等に扱うことが適当ではなく、禁止されているのは正義に反する差別、合理性を欠く差別である。すなわち不合理な差別取扱が十四条一項に反して違憲となる。一般的には法令の目的からみて客観的に規制を受けるべき範囲と、法令が採用している区別の微表の及ぶ範囲とを比較することがおおい。

6.尊属殺人重罰規定事件
実質的平等は各対象に対して平等を使い分けている分、「区別」なのか「差別」なのかしっかりと見極めた上で実施することが必要だ。そこで実際の違憲審査が行われた1973年の事件を例としてあげる。被告人は中学二年のとき実父から姦淫され、以後十年以上夫婦同様の生活を強いられて五人もの子を産んだ。29歳になって職場の同僚である青年と愛し合い、正常な結婚の機会にめぐりあったが、実父はあくまでも被告人を支配下において醜行を継続し、十日余りにわたって脅迫虐待した。このため、被告人は懊悩煩悶の極に陥り、その状況下で、いわれない暴言に触発されて、この忌まわしい境遇から逃れようと実父を絞殺し、自首した。

7.平等違反の違憲審査
上記の事件で刑法200条に記載された「尊属殺」の厳罰規定が、死刑または無期懲役刑のみに限っている点において、憲法14条の法の下の平等に反していないのかどうかが問われた。これに対し最高裁は、刑法200条は普通殺に関する刑法199条に著しく不合理な差別的扱いをするものとして、憲法14条一項に反するものとし、刑法200条の適用を変更し、その後削除された。違憲か、合憲かを判断するには裁判所が法令の違憲審査を行う際に、経済的自由権の規制と精神的自由権の規制とでは、違憲審査基準の厳格度が異なるべきであり、前者の場合は合憲性が推定されて厳格な審査基準が適用されるべきであるという考え方を意味する。その考えに基づき、対象となる権利の性質の違いを考慮して、立法目的と立法目的を達成する手段の二つの側面から合理性の有無を判断するのが妥当であると考える。

8.結びに変えて
自由と平等は相反するものであり、同時に手に入れることで両方に限界が生まれることになるのではないかと考える。なぜなら、完全な平等は社会主義となり個人の自由を奪う。また、完全な自由を与えると個人的な差が生まれ平等性が失われることを意味する。「自由」も「平等」もそれぞれ必要である。バランスを正しく見極め、絶対的平等を目指すより自由を保ちながら相対的平等を目指さなければならない。そのために合理的差別が必要となる場合がある。合理的差別と逆差別はすぐ隣にあるものだと念頭に置いて生活しなければならない。

参考文献
「憲法入門 第四版補訂版」 伊藤正己著 有斐閣

「憲法(第四版)」 芦部信喜 岩波書店

政治学入門 A判定 A6105

「政治的リテラシー」について論じなさい。

はじめに
リテラシーという言葉は最近何にでも使われるようになった。「ネットリテラシー」「金融リテラシー」「メディアリテラシー」などだ。これは英語のliteracyがもともとの言葉で「読み書きができる、教養のあるという意味から転じて「情報や知識の活用能力」という意味でつかわれる。「政治的リテラシー」とは一般に用いられている概念ではなく独特の用語法である。以下よりこれについて論じる。

1.高くなった政治的有効性感覚
2009年の夏、民主党が掲げた「政権交代」に多くの有権者が期待を託した。そして、予想を超える民主党の大勝、自民党の大敗に終わり、ここに与野党が入れ代わる政権交代が実現した。選挙によって与野党が代わるのは六十年以上の戦後史のなかで初めてである。そしてこのときの投票率は69%強と、2005年の郵政民営化選挙の67.5%をさらに2ポイント近く上回る、この20年来の最高の数字となっているのである。これは小選挙区制という制度およびマニフェストというツールの点で政権交代を可能にしたと考える。しかし、この歴史的な政権交代をもたらしたのは、選挙を通じた有権者の選択であったということこそ最も重要な事実だ。制度が変わり、新しいツールが作られたとしても、有権者が政権交代を選択しなければ何も起こらない。

2.政治的リテラシー
政権交代を機に、有権者は今政治への期待感をかつてないほど高めているといえよう。それは今政権に寄せる期待感ではなく、投票によって政治状況を変えることができたという経験からくる期待感である。1993年の細川連立内閣の誕生を機に始まった政界再編によって政党支持を失った脱政党層が増え、「積極的に無党派でいよう」と考える積極的無党派が多数を占める中で、従来の組織動員型選挙の有効性が低下した。そこにマニフェストというツールが加わり、さらに小選挙区制がもつ政権交代の促進機能が実現した。しかし、期待が高まれば高まるほどそれが外れたときの失望も大きい。選挙での数の優位を獲得することを最優先にしてきた民主党政権にとって、高まる有権者の期待感に応えることは容易ではない。その結果、政治状況は急速に混乱の様相を呈するようになった。有権者の失望は大きい。では、その失望はまた新たな政権交代を繰り返すべきなのだろうか。しかし人々の期待に100%正解をだせるような政権などどこにもいない。百かゼロかという二項対立的な思考法は現実の政治をみるうえでは有害である。ポピュリズムは敵、味方、善、悪といった二項対立の図式こそ最も得意とするものだからだ。百かゼロかという思考法に陥らないためには、政治的リテラシーを高める必要がある。政治的リテラシーとは現実の政治過程や政策形成といったルールは設計図通りに機能するわけではないこと、目的を実現するためには時間が必要だという事、合意するためには妥協も必要だという事。そういう政治認識を持ち、そのうえで優先すべきものはなにかを決めていく判断力を身に着けるということである。政治的リテラシーは政治家と有権者双方に必要とされる基礎的能力である。

3.政治的リテラシーを高めるために
政治的リテラシーを高める鍵は地方政治の場にある。近年地方政治の状況は急激な変化をみせている。日本の地方政治はいわゆる二元代表制といわれ、国会議員が首相を指名する国政選挙と違って、議会の議員選挙とは別に首長を直接選ぶ選挙が行われている。首長も議会とともに選挙によって選ばれたという正当性をもち、その両者が時に対立して、時に協力し合うなかで政治を進めていくことが期待されている。だが、地方議会においては、首長と同じ会派による総与党体制が主流であった。首長は議会との関係を良好にすることによりスムーズな校政が可能になり、議員にとっては支持者と行政の仲介や口利きなどによって自らの存在意義がアピールできるというもたれあいの関係ができあがっていたのである。しかしそのような関係も今日では許されない状況だ。どこの自治体も経済状況は厳しく、行政のチェックもできないような議会に対して、不要論も含めた厳しい目が向けられている。また、改革派の無党派首長が続々と登場することによって、総与党体制が崩れ、これめでのような首長と議会とのなれ合いの関係が維持できなくなっている。地方を取り巻く制度的環境も2000年の地方分権一括法によって国からの機関委任事務が廃止され、地方自治体固有の事務や政策決定範囲が拡大した。条例設定権を有する議会に期待される役割と責任はかつてなく大きくなっているのである。そうした期待の大きさに対して、議会自らも改革を始めている。2006年には財政再建団体となった夕張市に隣接する栗山町で日本初となる議会基本条例が作成され議会改革の成果を条例化した。住民による直接投票で選出される首長に対し、地方議会の存在理由はどこにあるのか。少なくない数の議会がそれを自問し、答えを求めて動き出している。独任制の首長に対して合議制の議会ということを考えるならば、住民代表として「審議し、決定する」ことこそ議会の存続理由である。「議員あって議会なし」といわれるほど、これまで地方議会には議会としての活動や意思決定が決定的に不足していた。それに気づき、住民との関係を再構築しようとする議会が増えてきた。人口が減少する地域では特に行政サービスの見直しなど「負の分配」が求められる局面において議会として地方公共団体の政策形成に積極的に関与する必要がでてくることから政策形成過程への住民の参加を求めることにより多様な利害を出し合い議論したのち、議会として意思決定することもある。夜間議会や休日議会を開き、ネット中継を行って住民を議会に呼び込むとともに政策討論会や議会報告会を開いて住民のもとに出かけていく。そうした努力を地方議会が始めている。有権者が地方議会の動きに呼応し、自分たちの地域の問題を自分たちで考え、議論し、決めていく。そうした経験を積み重ねていくことが政治的リテラシーの涵養につながるだろう。

4.有権者としての自立
改革の動きは議会だけでなく、執行機関である首長にも生まれてきている。先に述べたローカルマニフェストの運動はかなりの広がりを見せ、マニフェストへのチェックや評価を行う受け身的な姿勢から、マニフェストに自分たちが要望する項目を入れるよう要求する「逆マニフェスト」のような運動も生まれてきている。有権者が、こうした経験を積み重ね、政治的リテラシーを向上させていくことにより、地方政治の現場も活性化する。2009年の政権交代は政党間での水平的な権力移動であったが次に求められるのは中央政府と地方自治体の間での垂直的な「政権交代」なのかもしれない。選挙による政権交代を経験し、政治的有効性感覚を実感した有権者たちが、今度は自らの生きる地域での政治参加へとつなげていく。その政治参加を通じて政治的リテラシーは高まり、政治への認識もよりリアルなものとなる。政治に任せいつも満ち足りなさを感じるのではなく自らが政治を引き受け、政治参加を実感する。そうした成熟した経験を有したとき、無党派層は「浮動する有権者」ではなくて「自立した有権者」へと進化することになると考える。そして有権者として政治に参加するために政治の仕組みや原理についての正しい理解、社会や経済の動きに関する豊富な知識、日本という国や自分の住んでいる地域の現状はどうなっており、どんな課題があり、どんな解決策が必要なのかを考えることが必要だ。日本の政治が変化の時代に入っているからこそ私たちが市民として政治に関与するというのはいったいなにを意味するのかもう一度見直し政治リテラシーを個々に身につけなければいけない。

参考文献
「実践の政治学」 法律文化社 畑山敏夫 平井一臣