2017年7月1日土曜日

スポーツ論入門 A判定

第一設題 自己の運動(スポーツ)体験を通して獲得したもの、これから、獲得しようとしているものを具体的に記述しなさい。

はじめに 
私たちは「何かの役に立つ」という原理が支配している世界に生きている。このような世界の中でスポーツは多くのことに役立つ。「健康のため」「教育のため」「金儲けのため」に役に立つのであってそれゆえに価値があるものとされてきた。しかしながらスポーツは、結果として何かの役に立つから価値があるのだろうか。たとえばバットの芯でボールをとらえた瞬間の感覚、走っている最中の人間・身体としての爽快感・充実感、そこに人間として重要なものを見出すことはできないだろうか。スポーツの意義を、結果(業績・健康)の生産に見出すことだけでなく、「スポーツ」すること自体に「価値」があると考えることによって、その新たな意味を見出すことができるのでないかと考える。下より、私自身のスポーツ体験を振り返り、それにより培われたものを述べる。

自己のスポーツ体験
中学高校時代、六年間の間バレーボール部に所属していた。初めたきっかけは、クラスで仲のいい友達が入部していたことから軽い気持ちで入部を決めた。しかし、それ以前に運動経験もなくルールさえも最初は理解せずはじめたものであったから、練習についていくのが苦痛で時には涙を流して練習していたことを覚えている。段々と学年が上がるにつれ、練習に慣れ、後輩に時々指導する側となったり試合で活躍出るほどになった。あんなにつらくいきたくなかった部活であったが、高校に進学し続けることを決意した理由は、中学時代に苦労して身に着けた技術をもう少し磨きたいと考えたからだ。今から思うとあれ以上に苦しい日々はもうこないと考えていたし、なにより自分の実力に自信があった。しかし私の考えは甘く、ほかの中学から集まったほかの部員は自分が見てきたバレーボールの世界とは全く違い実力の差があり愕然としたことを覚えている。高校でバレーボ-ルを続けようと思ったことを後悔したほどである。またあの苦しい時期を一からやり直すのか・・・と落ち込んだ。しかし、中学時代に部活に休まず出席する癖がついていたおかげで実力はさらにあがった。高校最後の試合で、引退した日に何とも言えない達成感を味わったことを今でも記憶している。今学生時代を振り返ると当時は毎日つらい、身体もしんどいと考えていたが、不思議と記憶が前向きで自分が最も輝いていたような気になる。

自己のスポーツ体験を通して獲得したもの
1.努力・克己の精神
六年間の部活動を通じて獲得し、今でも私を築く土台となっているものは努力・克己の精神だろう。厳しい練習に耐えるというのももちろんあるが、それ以前に毎日休まず部活に行くというあたりまえのことを続けたことが私にとっては当時の自分をほめてやりたい点である。これから始まる練習を想像すると腰は重いし、休みたいという気持ちを抑えまず出席するということは自分自身との戦いであった。諦めることの解放感をもうすでに知っていた自分にはここをクリアしたことが大きな自信につながった。このことは、引退し大人になっても自分という人間を形成するうえで大変役に立ち胸をはって自分の長所といえるだろう。

2.他者との調和を優先する精神
バレーボールはなんといってもチームメイトとの協力、チームプレイが重要である。自分だけが目立った活躍をしていても当然チーム自体が良いチームとは言えない。他者が今何を考えているか、チーム全体の雰囲気まで考えなければいけない。これは今社会人となり会社で働くうえで、特にスポーツをやっていてよかったと思える点である。同じ会社の人間への感謝や、思いやりもこの精神を持ち合わせないと気付けないことも多々ある。また調和とは目上の人間を敬うことも重要だ。それも上下関係の厳しい部活であったから自然に身についた。他人同士がうまくいってない雰囲気を感じた時も自分が仲介をしたり、雰囲気を一掃し全員を再びまとめ同じ目標に向かわせる努力をしたことも今社会人になってからも何度も役に立っている。

3.基礎体力
実際にスポーツをすることにより、反射神経がよくなりいろんな競技がそれなりにできるという点で、いろんなものに触れることができ、経験として人生において得をしていると考えている。また、走りこむことや基本の体力をつけるトレーニングをしていたことにより体が強くなった。学生時代から比べると多少体力は衰えたが、今でも長距離を走れることは当時のトレーニングがあったからだろう。

4.忍耐の精神
1でのべた努力の精神とすこし似ているところはあるが、ここで述べるのは感情的に動かず、一度冷静になり耐えるという意味だ。スポーツをしていて、立ち止まるポイントがいくつかあった。練習していてもおもうように上達しない、試合に勝てない、チームの和が乱れるなど。こういう時、すべてを諦めて投げ出したくなる。しかし、自分の目標を思い出し、そのために今自分は何をすべきなのか冷静に考えなければいけない。その忍耐こそ、結果につながった自信があり、スポーツ以外の場面で立ち止まったとしても過去の経験を思い出し、あの時うまくいったからここは一度耐えて考えてみよう。と我慢するというより前向きに待てるようになったともいえる。うまくいかないことのほうが圧倒的に多いと社会に出てから気付き、乗り越えるには忍耐だと実感した時は、いくつになっても忍耐というものは必要だと改めて実感した。

これから獲得したいもの
社会人として時間的な制約は増え、運動不足は気になるものの、忙しい日常の中で継続してスポーツを行うことがむずかしくなってきた。そこで仕事の後や休日を利用して活動することがポイントとなると考えた。最近では夜遅くまで営業するスポーツクラブも多く、プログラムも多彩であり、選択肢も増えている。そうした施設ではトレーナーが個別にプログラムを作成してくれたり、定期的に体力を測定・評価してくれるなどのサービスもあり、自分のスケジュールや体力にあわせて運動を行うことも可能になってきている。このようなサービスを積極的に利用し、これからもまずスポーツというものとの距離を開けすぎず、触れていきたいと考えている。日常生活において、スポーツがある生活はより自分自身を体力面でも精神面でも向上させてくれるに違いない。昔ほど、試合の結果やスコアにこだわらなくてもいいと思っている。大事なことは生涯どんなかたちでも自分のペースでスポーツと触れ合うことだ。社会人になってから、学生時代の友人と仕事場や職種、家庭環境などの変化によりどうしても疎遠になってしまった。そのことにより、仕事後や休日は外に出ることが面倒になり、何もしないままに休日が終わってしまったということがよくある。その後はきまって何もせず終わった休日を振り返り、後悔したりする。今後は是非、外に出ていろんなサービスを受けながらでも挑戦したことのないスポーツのジャンルに挑戦してみたり、新たにスポーツを通して人とのかかわりを築きあげたいと考えた。共通の趣味をもち、互いを向上させ、時には励ましあうような関係をつくれたらいい。

最後に
この学習を通じて、スポーツが技術以外に自分に与えてくれた「経験」を思い出し、その経験によって自分自身が動き、今でも学び続けていることに気付いた。つらく、身体だけがしんどいというようなイメージも少しあったが、これからは自分のペースでスポーツにふれあい、協議すること以外にも観戦したり、またそのスポーツの歴史や文化にも触れてみたいと考えた。スポーツが与えてくれた人間関係、自分の信念をこれからも忘れずに持ち続け、より自分という人間を向上させることに努めたい。

参考文献
健康・フィットネスと生涯スポーツ 改訂版

東海大学一般体育研究室 編

2017年2月11日土曜日

通信大学の学費って大体いくらかかるの??とお思いの方へ




こんにちは!^ - ^
レポート提出期限が今月も終わりましたね☆

今日は、通信大学で、大学卒業資格を取りたい方や、教員免許を取得を考えていらっしゃる方の為、ざっくりいくら必要なのか
書いていきます!!!!!!

佛教大学の通信教育パターンで書きますが、科目や教員免許以外の資格によっても金額は変動しますので、ざっくりこのくらいだと思ってもらえれば幸いです。

大学側のホームページには詳しい算出もありますので、気になる方はそちらを見て見てくださいね☆



ではまず、

①大学卒業資格が欲しい人
②大学卒業と同時に教員免許が欲しい人
③大学卒業資格を持っていて、教員免許だけ欲しい人

の3パターン算出してみます。


①、②の方は
大事なポイントは最低、四年間の通学が必要です!!!!!

①の方に関しては世年間で70万〜80万前後で卒業資格が取得できます。
ざっくり内訳は
150000万/年間+スクーリング(実際に大学に行って授業を受ける授業料が別途かかる)+諸経費+教科書代

②の方は、①の方にプラスして
教員免許を取るための必要単位を取得するための経費(150000円ほど)
教育実習代(50000円程度)
かかりますので
四年間で80万〜100万




なかなか高いですが、他の私立大学(年間約100万ほど)と比べれば、お得なのでははないでしょうか??( ´・‿・`)



続いては、③番の方は2年の通学が必要です!!!!!!

③番の方の学費は初年度が役200000円と、①や②の方と比べて少し高いですが、卒業までにかかるお金は約500000円!




いかがでしたでしょうか??^ - ^
思ったより安い、思ったより高いなど感じ方は人それぞれかなと思いますが
大学卒業資格も教員免許もこれからの人生長く役立ってくれるものでしょう。




かっぱ



2017年2月10日金曜日

基礎教育科目オススメ履修科目【通信大学に興味がある方はまずここから☆】


今回は、学部本課生といわれる、いわゆる通信大学に四年間通い、大卒資格や同時に教員免許取得を考えていらっしゃる方に役立つ情報をお届けします!!!


これから、通信佛教大学に通うか検討中の方や大卒資格が欲しい方必見です!!!!!!!



まず、通信佛教大学に学部(本課)生として入学すると、必修科目がでてきます。

そこで、本来ならば
哲学入門
文学入門
社会学
社会福祉学
経済学入門
教育学
心理学

の中から2つの履修ですむところを、私はよくシラバスを読まずに間違えて片っ端からレポートを書いたり、テスト勉強したので、この度皆さんが初めにどの科目を勉強するか迷われるところだと思うので、

難易度(レポートの書きやすさ、テスト問題の簡単さなど)で分けてみました!!(・ω・)




注目科目をご紹介します!
哲学入門   

数ある哲学を2つ要約する設題です。私はこのブログで、プラトン哲学とデカルト哲学のレポートを載せています。    簡単に言えば、教科書が難しく、参考文献がないと理解しがたいものだと思います。  テスト問題6問も全て別の哲学についての要約なので教科書をほぼ全て読み、理解しないと解けません。    評価 ☆1


文学入門  

有名な文学を一設題、二設題あわせて4つを観賞するというレポートでした。鑑賞文に関してはそこまで難しくはないですが、この教科はテスト勉強がかなり大変です。『方丈記、伊豆の踊子、雪国、山の音、サーカス』を丸暗記する必要があります。   なかなか大変なので評価☆1


教育学入門  

教科書も読みやすく参考文献なしで十分なレポートが書けます。専門用語もなく、二設題とも教科書を読んで自身の教育論について書くので、自分らしいレポートが書きやすい科目です。  評価☆3

政治学入門

多少の専門用語はありましたが、関心が多い事柄なのかネットで詳しくわかりやすい解説もあり、とっつきやすい科目でした!!また、今の政治と絡めた自身の考えなどもいられるので、書きやすく、テスト問題もまだ簡単です!!オススメ!!  評価☆3






是非参考にしてみてくださいね!(^_^)


かっぱ

Twitter   @kappamaki0611



2017年1月30日月曜日

心理学入門 第二設題

第二設題 アタッチメント理論について解説しなさい

はじめに

愛着(atatachment)とはボウルビィという人物によって提唱された概念である。この概念は、人間にとってとても大切なものとされている。多くの研究がなされており、その形成過程や障害について明らかになっている。そして幼少期の愛着の経験がその後の成長に大きく影響を与えるとされている。

アタッチメント理論とは

アタッチメント理論とは子どもと母親にとの間に形成される情緒的な絆を意味する。たとえば、生後2~3か月ごろから、乳児は自分の求めに頻繁に応じてくれる母親に対して、他の人々とは異なる反応を示すようになる。見知らぬ人への微笑が減少し、母親に対してのみ特別によくほほえみかけるようになる。また、他の人では泣き止まなくても、母親があやすとすぐに泣き止むようになる。このような現象は、スキンシップによってもたらされる快感を得るためだけではなく、養育者を安全基地として周囲の世界を探索しようとする乳児の主体的な活動によると考えたのである。
 アタッチメント理論では、乳児期に特定の人との間で質の良いアタッチメントを形成することは、こどもの安定した情緒の発達を促すと考えられている。質の良いアタッチメントは、自分が求めればいつでも応じてもらええるという信頼感を与え、不安にあふれた未知の世界への探索活動を促進する。一方、母子間のアタッチメントが弱い場合や、母子間の強すぎるアタッチメントが子供の自立を阻害している場合には、子供の情緒は不安定になる。つまり、質の良いアタッチメントは、両者の間で適度な強さの安定した情愛が結ばれている場合に形成されると考えている。

愛着の形成の流れ
愛着は養育者との相互的なやりとりによって形成される。特に、このような養育者との相互的なやりとりを通して形成される、子どもの心の中の自分や他者に対するイメージは「内的作業モデル」としてとても重要なものとされる。子どもは誕生直後から、母子間で表情や動作、言葉にならない音声などを通して、相互作用が繰り返される。たえば、母親が乳児の気を引こうと話しかけると、乳児は微笑む。さらに、乳児が声をあげたり手を振って喜びを表すのをみて、母親は自分の頭を振ったり後ろにそらしたりして答える。お互いの働きかけと応答は常にうまくかみ合うとは限らないが、次第にずれが修正され、まるでダンスしているような一体感(相互同期性)が感じられるようになる。
 こうした相互作用がスムーズに展開していくためには、母親の応答性、乳児の内的状態や信号を敏感にとらえ、タイミングよく適切に対応することがカギとなる。たとえば、いつも乳児の注意を引こうと刺激を与えても、目をそらしたままぐずったりする。母親にとって、乳児が自分を三つ目、目をそらすリズムをつかむことが必要である。また、次第に乳児は自分の欲求を伝えようと意識的に泣くようになる。泣きが空腹によるのか、痛みによるかなどと、適切に解釈して対応することも求められる。
ただし、こうした応答性は母親の人格特性によって規定されたものとするのではなく、乳児や母親を取り巻く人々との関係の中で揺れ動くと考えるべきである。乳児の個性と母親の人格特性との適合がよいほど相互関係はスムーズに展開し、母親は育児に対する有能感を深め、乳児に対して肯定的な感情を抱くことになる。
また、夫婦関係や家族の母親への支援態勢、移住環境なども密接に関連している。母親が心理的に閉塞状態に陥ると、情緒の安定性を欠き、応答性が低下するだろう。さらに、母親の生活史や育児観によっても影響される。自分の母親との関係に満足しているか、妊娠を肯定的に受け止めているか、自分自身をどのように評価しているかなどが重要である。

近年のアタッチメント理論の考え方
近年、親による乳児・児童に対する虐待が増加し、「母性」が神話にすぎないことが指摘されてからは、子どもと養育者の情緒的な結びつきのメカニズムに対する議論は盛んにおこなわれている。しかし、子どもの発達と同様、母子関係の形成にも多様性が見られ、唯一の説は定まっていない。
ハーロウという人物は、アカゲザルの乳児を母親から引き離し、二種類の人口母親模型で育てる実験を行った。母親模型には子ザルに授乳できるように哺乳瓶がつけられていたが、一つは柔らかい布で覆われた布製模型、もう一つはむき出しのままの針金製模型であった。最初に「乳児は口唇を通じて母乳を吸うことに快感を覚え、その快感を与えてくれる母親に愛情を感じるようになるとする。」と唱えたフロウトという人物の主張通りならば、布製模型に授乳された子ザルは布製模型に、針金模型に授乳された子ザルは針金模型に愛情を感じ、長時間過ごそうとするはずである。しかし、実際には、どちらの母親模型から授乳された子ザルもほとんどの時間を布製模型と接触したのである。この結果から、ハーロウは授乳そのものによって愛情がはぐくまれるのではなく、授乳の際のスキンシップにともなう快感が重要であるという結論を導き出したのである。
しかし、この接触満足説は動物実験から導かれており、人間にも当てはまるかという疑問を残す。また、父親も母親も同様にアタッチメントの対象となっているという結果が報告されてからは「乳児はまず特定の一人の人物にアタッチメントを形成する」という特殊な二者関係を強調するボウルビィのアタッチメント理論は問題が多いと考えられている。
 しかしながら、乳児期に特定の人との良好な関係を維持することができなかったために、発達上一定の障害をもつに至った子どもの例は多く、早期の母性的養育の剥奪が、その後の人生に大きな影響を与える可能性は否定できない。
 繁多は健全なアタッチメントの形成には、特に母親が①子どもの活動に敏感に、適切に反応すること ②一定量以上の相互関係があること ③子どもとの相互関係を喜びをもって行うことが重要であると考えている。

結びに変えて
このレポートにおいては特に乳児期のアタッチメントについて詳しく解説したが、の安全基地となうる保護者からの自立までにはいくつかの段階があると考えた。誕生してからすぐには視力が低いため、誰かが見えないというところから始まり、母を認識する、そしてはいはいができるようになり、歩けるようになってからは受けるだけの愛着ではなく自らの意思表示をしコミュニケーションをとりあい、相互関係を築く。アタッチメントによって不安を解消し、探索活動を活性化し、子どもに安心感を与えたり、他者との信頼関係を結ぶことは大人になり社会に出てからも必要不可欠なことだ。つまり親と子のアタッチメントはすべての土台となるのではないだろうか。
ここで、親の在り方について考えてみる。上述のようにアタッチメントによって人格の基盤ができるものだとしたら、責任は重く、常に子供に寄り添う姿勢が必要だ。しかし、これには親自身の情緒が安定していることが不可欠だ。子どもがうまれた瞬間に親に自動的になるが、人間の器としてはすぐに広くはならないと感じた。特に女性は10か月お腹で一緒に過ごしてきたのだから、母性は備わっているかもしれない。しかし、男性は実感が沸きにくいものなのだとよく耳にする。このことからアタッチメントを子どもと分かち合い、こどもだけではなく親としても子供と一緒に成長するものだと考えるのがよいだろう。
親は子どもの中に豊かなアタッチメントをはぐくみながら、自分自身も子育てを楽しみ、親として成長し続け、幸せを感じることができたのならば、子育てはなんと楽しく、なんとたくさんの幸せをくれる営みであるのかに気づくことができる。
知識だけでは子育ては成立しない。しかし、アタッチメント理論は子どもの愛し方、育て方の原則原理を教えてくれる、素敵な知識である。

参考文献 「心の理解を求めて」 橋本憲尚 佛教大学

心理学入門 第一設題

第一節第: 社会的アイデンティティとその偏見について解説しなさい。

社会的アイデンティティについて

本題に入る前に、アイデンティティと呼ばれるものについて論じる。自分が何者であるかということを自己認識(自己定義)する「自己アイデンティティ」は、日本語では「自己同一性、自我同一性」と翻訳され、自己アイデンティティとは「社会・集団・信念」において自分がどのような存在であるかの自己認識を意味する。ここでは社会心理学者であるH.タジフィルとJ.Cターナーが考案した「社会的アイデンティティ」について論じる。「社会的アイデンティティ」とは「自分がどのような社会集団に所属しているか・自分がどういった社会的カテゴリーに該当しているか」という自覚(自己定義)にまつわる自己同一性のことである。自分は日本に所属しているから「日本人」である、自分は「〇〇商事の社員」である、自分は「〇〇大学」卒業であるから「〇〇大学OG」である、自分は「富裕層」のカテゴリーに当てはまるから「富裕層の一員で」ある、などじぶんがどのような社会集団や社会的カテゴリーに当てはまっているかによって規定される自己アイデンティティが社会アイデンティティと呼ばれるものである。この社会的アイデンティティは先に挙げた出身校、サークル、勤務先といった集団のほかにも、性別、民族、世代など多様なカテゴリーにもとづく
他の誰でもない「私」としての自己を定義している(個人的アイデンティティ)ときとは異なり、社会的アイデンティティを意識した状態では、私たちは所属集団のメンバーとして行動するそのとき一人一人は「我々」という意識によって自分を定義している。他者についてもその人がどういう人なのかはさほど問題ではなく、その人がどのグループに所属しているかがむしろ問題となる。タジフェルが指摘するように
私たちの行動は純粋に個人としての対人行動と純粋にメンバーとしての集団間行動までの間のどこかに位置づけられる。

カテゴリー化と偏見

社会的アイデンティティは「所属集団・所属カテゴリーの相対的な優劣」が自分自身の優越感(優越コンプレックス)や劣等感(劣等コンプレックス)につながりやすい特徴を持つ。カテゴリー化というのは「一流国立大学・一流私立大学・一般的な国公立大学・偏差値の低い大学」、「一流の大企業・普通の大企業・中小企業・零細企業・個人事業」、「富裕層・中所得層・低所得層」、「国内・国外・自国に友好的な国・自国に敵対的な国」というように、社会集団・組織をそれぞれの規模や評価、特徴によって分類することである。
私たちがある集団のメンバーだと感じることは、同時にある人たちはそこに属していないと感じていることになる。つまり「我々」と「彼ら」というカテゴリーに分類しているのである。前者を内集団、後者を外集団という。いったんカテゴリー化が生じるとたとえそれが恣意的、形式的、無意味なものでもカテゴリー間の差異は過大視される。ごく些細な差異でもあるいは現実に差がなくても「我々」と「彼ら」の特性、意見、行動は全く異なると信じられてしまう。ただしこの時点ではそれは単なる区別である。しかしこれに評価的要素(良い-悪い)が伴ってくる。  
内集団が自己を規定するとなると、当然ながら内集団は「優れた集団」であってほしい。内集団の名誉や価値は社会的アイデンティティを通じてそのメンバーにポジティブな自己概念を与えてくれる。ところがそもそも(良い-悪い)は相対的なものである。そこで内集団の価値を高めるための一つの手段が外集団を見下すことである。ポジティブな自己概念を得たいという心理が外集団に対する蔑視や中傷を誘う。
 また、内集団のメンバーについては「確かに同じカテゴリーに入っているが、一人ひとりは様々な特性をもつ個性ある存在である」と認識するのに対して、外集団については「彼らはどの人も大差ない」として十把一絡に片づけてしまう傾向もある。「若者だから」「年をとっているから」「男だから」「女だから」「OO人だから」「〇〇校の学生だから」「教師だから」など、ステレオタイプ的な見方は偏見や差別につながっていく。

偏見からの脱却
上記のような差別や偏見はいじめや国規模での戦争など大きな社会問題の原因になりうる。特に日本ではいじめ問題は自殺の原因となることがあるので問題視されている。文部省が設置した「児童生徒の問題行動に関する調査研究協力者会議」による調査結果1996)では、8~9割の子どもが「どんな理由があってもいじめはぜったいにいけない」と回答したにもかかわらず、いじめを見聞きした子どもの中では「できるだけかかわらないようにした」という回答が4~5割と最も多い。いじめられた体験がある子どもがおおいクラスには「言いたいことも言えない雰囲気がある」という。いじめとは「集団に強くこだわる意識」による現象であり「グループの内部に生じる目に見えない相互作用による現象」だと説明されたりもする。これはすなわちいじめる側といじめられる側にカテゴリー化されている。いじめる側には、見ているだけで救いの手を差し伸べず、少数化になるのを避ける者も含めるものとする。
このような各カテゴリーの集団には特有のルールや行動様式、価値観がある。集団の多数が実際にあるいは表面上承認しているルールや価値観を集団規範と呼ぶ。成文化されていようが暗黙のものであろうが、集団規範はメンバーにとっての枠組みでありメンバーは自分の意志や行動を規範に一致させることが期待されている。逆に言えばそうした枠組みのおかげでどうふるまえばよいかを知ることのできるものである。
しかし、なかには規範を受け入れられないメンバーもいる。さきほどのいじめの話でいうところのいじめられる側だ。そうした逸脱者に対して、一致への圧力や集団からの排斥という形で多数派の力が行使される。ここでの多数派とはいじめる側を意味する。このような多数派への同調の背後にある心理は一様とは限らない。一つには人が正しさを求めえる存在であることを発する。自分に確信が持てないときに他者を参考にして自分の意見や行動を変容することがある。したがって判断が困難であり、確信がもてないときほど同庁が起きやすい。しかし、人はまた他者に受け入れられたいと願う存在でもある。集団事態や特定のメンバーに魅力を感じるためにその人たちを模倣とする結果として同調する場合もある。
 このような心からの同調以外に、異質なものとして孤立してしまう恐怖から多数派へ同調したり、嘲笑や非難を恐れて追従する場合もある。集団に所属することが自分にとって重要ほど同調は起きやすい。ただし、これららは表向きの変容であり心から同意しているわけではなく、孤立・嘲笑・非難などの恐れがないと分かれば同調は消滅するれえる。多数派への同調といっても、その動機によって内面への浸透度や持続性が異なるのである。
多数派からの圧力は確かに協力ではあるが、抵抗不可能というわけではない。多数派によるルールや価値観であっても、永遠に規範として持ち続けられるものではない。いつかは変化するものであり、その原動力は少数派からの異議申し立てである。少数派が影響力を発揮できるのは自分たちの立場をかえることなく主張し(通時的一貫性)で立場の統一がとれていること(共時的一貫性)が必要である。少数派が一貫した立場をとることによって、その立場が多数者に対して目立ち、従来との規範が人々の中に生まれる。この葛藤を経験することによって多数者が自らの立場に疑問をもち、少数派から影響を受けえるようになる。少数派が私的流用をはなれていること(公正さ)や他者に迎合しない独自の行動をとっていること(自立性)が人々に認識されるかどうかも、少数者が影響力を発揮するための鍵となる。

結びに変えて
いじめで自殺する未成年のニュースを見ることが増え大変心が痛む。いじめられてる側は弱い立場に常にある。いじめる側はすぐには自らの過ちに気づかず、最悪の事態になりかねない。社会的アイデンティティが生じるのは多数の人間がいれば自然なことではあるが、少しでも疑問を持つ傍観者には今一度多数派に逆らい少数派の意見も聞けるしっかりとした自己アイデンティティを持ち合わせてほしい。

参考文献 「心の理解を求めて」 橋本憲尚 編著  佛教大学

2017年1月23日月曜日

佛大最終試験の勘違い【あなたも損するかもしれません!!】



22日の試験受けられた方、お疲れ様でした!!今年一発目の科目最終試験、手ごたえはいかがでしょうか??

科目最終試験、午前午後問題ありますので知りたい科目があればいつでもお気軽にコメントください(*^_^*)





今回の本題に入ります。



みなさん、ひとつ前の試験で出た問題は次の試験にはでないから、六問勉強しなくても5問勉強すればいい!!

と、思っていませんか??


私自身、そうだと思っていました。。。




しかし、写真は22日の実際の試験問題の午前と午後の分79、80なのですが
英米文学論の問題が一緒なんです。


しかもこの問題は、1週間前の特別試験でもこの問題でした。





ということは、

直近の試験にでていたからこの問題は勉強しなくていい!!なんてことはありません。

確かにかぶりにくいことは事実ですが、絶対に落としたくない単元ならなおさらだめですよね。





mixiの佛大コミュで直近の問題を教えあう光景をよく見ますが、あてにしすぎてもダメなんですね。。。





それでは、今回はこのへんで(^'^)

かっぱ

2017年1月18日水曜日

通信大学生かっぱまきのブログ: 日本憲法科目最終試験⑤

通信大学生かっぱまきのブログ: 日本憲法科目最終試験⑤: 日本国憲法 科目最終試験⑤ 法がなぜ必要か論じなさい 実質的意味の憲法はおよそ国家である以上、かならず備えているものである。根本の秩序を定める法規範がなければ国家の初歩的段階といわれる古代国家でも、権力的な秩序が備わっている以上日本国家成立...