2017年1月30日月曜日

心理学入門 第一設題

第一節第: 社会的アイデンティティとその偏見について解説しなさい。

社会的アイデンティティについて

本題に入る前に、アイデンティティと呼ばれるものについて論じる。自分が何者であるかということを自己認識(自己定義)する「自己アイデンティティ」は、日本語では「自己同一性、自我同一性」と翻訳され、自己アイデンティティとは「社会・集団・信念」において自分がどのような存在であるかの自己認識を意味する。ここでは社会心理学者であるH.タジフィルとJ.Cターナーが考案した「社会的アイデンティティ」について論じる。「社会的アイデンティティ」とは「自分がどのような社会集団に所属しているか・自分がどういった社会的カテゴリーに該当しているか」という自覚(自己定義)にまつわる自己同一性のことである。自分は日本に所属しているから「日本人」である、自分は「〇〇商事の社員」である、自分は「〇〇大学」卒業であるから「〇〇大学OG」である、自分は「富裕層」のカテゴリーに当てはまるから「富裕層の一員で」ある、などじぶんがどのような社会集団や社会的カテゴリーに当てはまっているかによって規定される自己アイデンティティが社会アイデンティティと呼ばれるものである。この社会的アイデンティティは先に挙げた出身校、サークル、勤務先といった集団のほかにも、性別、民族、世代など多様なカテゴリーにもとづく
他の誰でもない「私」としての自己を定義している(個人的アイデンティティ)ときとは異なり、社会的アイデンティティを意識した状態では、私たちは所属集団のメンバーとして行動するそのとき一人一人は「我々」という意識によって自分を定義している。他者についてもその人がどういう人なのかはさほど問題ではなく、その人がどのグループに所属しているかがむしろ問題となる。タジフェルが指摘するように
私たちの行動は純粋に個人としての対人行動と純粋にメンバーとしての集団間行動までの間のどこかに位置づけられる。

カテゴリー化と偏見

社会的アイデンティティは「所属集団・所属カテゴリーの相対的な優劣」が自分自身の優越感(優越コンプレックス)や劣等感(劣等コンプレックス)につながりやすい特徴を持つ。カテゴリー化というのは「一流国立大学・一流私立大学・一般的な国公立大学・偏差値の低い大学」、「一流の大企業・普通の大企業・中小企業・零細企業・個人事業」、「富裕層・中所得層・低所得層」、「国内・国外・自国に友好的な国・自国に敵対的な国」というように、社会集団・組織をそれぞれの規模や評価、特徴によって分類することである。
私たちがある集団のメンバーだと感じることは、同時にある人たちはそこに属していないと感じていることになる。つまり「我々」と「彼ら」というカテゴリーに分類しているのである。前者を内集団、後者を外集団という。いったんカテゴリー化が生じるとたとえそれが恣意的、形式的、無意味なものでもカテゴリー間の差異は過大視される。ごく些細な差異でもあるいは現実に差がなくても「我々」と「彼ら」の特性、意見、行動は全く異なると信じられてしまう。ただしこの時点ではそれは単なる区別である。しかしこれに評価的要素(良い-悪い)が伴ってくる。  
内集団が自己を規定するとなると、当然ながら内集団は「優れた集団」であってほしい。内集団の名誉や価値は社会的アイデンティティを通じてそのメンバーにポジティブな自己概念を与えてくれる。ところがそもそも(良い-悪い)は相対的なものである。そこで内集団の価値を高めるための一つの手段が外集団を見下すことである。ポジティブな自己概念を得たいという心理が外集団に対する蔑視や中傷を誘う。
 また、内集団のメンバーについては「確かに同じカテゴリーに入っているが、一人ひとりは様々な特性をもつ個性ある存在である」と認識するのに対して、外集団については「彼らはどの人も大差ない」として十把一絡に片づけてしまう傾向もある。「若者だから」「年をとっているから」「男だから」「女だから」「OO人だから」「〇〇校の学生だから」「教師だから」など、ステレオタイプ的な見方は偏見や差別につながっていく。

偏見からの脱却
上記のような差別や偏見はいじめや国規模での戦争など大きな社会問題の原因になりうる。特に日本ではいじめ問題は自殺の原因となることがあるので問題視されている。文部省が設置した「児童生徒の問題行動に関する調査研究協力者会議」による調査結果1996)では、8~9割の子どもが「どんな理由があってもいじめはぜったいにいけない」と回答したにもかかわらず、いじめを見聞きした子どもの中では「できるだけかかわらないようにした」という回答が4~5割と最も多い。いじめられた体験がある子どもがおおいクラスには「言いたいことも言えない雰囲気がある」という。いじめとは「集団に強くこだわる意識」による現象であり「グループの内部に生じる目に見えない相互作用による現象」だと説明されたりもする。これはすなわちいじめる側といじめられる側にカテゴリー化されている。いじめる側には、見ているだけで救いの手を差し伸べず、少数化になるのを避ける者も含めるものとする。
このような各カテゴリーの集団には特有のルールや行動様式、価値観がある。集団の多数が実際にあるいは表面上承認しているルールや価値観を集団規範と呼ぶ。成文化されていようが暗黙のものであろうが、集団規範はメンバーにとっての枠組みでありメンバーは自分の意志や行動を規範に一致させることが期待されている。逆に言えばそうした枠組みのおかげでどうふるまえばよいかを知ることのできるものである。
しかし、なかには規範を受け入れられないメンバーもいる。さきほどのいじめの話でいうところのいじめられる側だ。そうした逸脱者に対して、一致への圧力や集団からの排斥という形で多数派の力が行使される。ここでの多数派とはいじめる側を意味する。このような多数派への同調の背後にある心理は一様とは限らない。一つには人が正しさを求めえる存在であることを発する。自分に確信が持てないときに他者を参考にして自分の意見や行動を変容することがある。したがって判断が困難であり、確信がもてないときほど同庁が起きやすい。しかし、人はまた他者に受け入れられたいと願う存在でもある。集団事態や特定のメンバーに魅力を感じるためにその人たちを模倣とする結果として同調する場合もある。
 このような心からの同調以外に、異質なものとして孤立してしまう恐怖から多数派へ同調したり、嘲笑や非難を恐れて追従する場合もある。集団に所属することが自分にとって重要ほど同調は起きやすい。ただし、これららは表向きの変容であり心から同意しているわけではなく、孤立・嘲笑・非難などの恐れがないと分かれば同調は消滅するれえる。多数派への同調といっても、その動機によって内面への浸透度や持続性が異なるのである。
多数派からの圧力は確かに協力ではあるが、抵抗不可能というわけではない。多数派によるルールや価値観であっても、永遠に規範として持ち続けられるものではない。いつかは変化するものであり、その原動力は少数派からの異議申し立てである。少数派が影響力を発揮できるのは自分たちの立場をかえることなく主張し(通時的一貫性)で立場の統一がとれていること(共時的一貫性)が必要である。少数派が一貫した立場をとることによって、その立場が多数者に対して目立ち、従来との規範が人々の中に生まれる。この葛藤を経験することによって多数者が自らの立場に疑問をもち、少数派から影響を受けえるようになる。少数派が私的流用をはなれていること(公正さ)や他者に迎合しない独自の行動をとっていること(自立性)が人々に認識されるかどうかも、少数者が影響力を発揮するための鍵となる。

結びに変えて
いじめで自殺する未成年のニュースを見ることが増え大変心が痛む。いじめられてる側は弱い立場に常にある。いじめる側はすぐには自らの過ちに気づかず、最悪の事態になりかねない。社会的アイデンティティが生じるのは多数の人間がいれば自然なことではあるが、少しでも疑問を持つ傍観者には今一度多数派に逆らい少数派の意見も聞けるしっかりとした自己アイデンティティを持ち合わせてほしい。

参考文献 「心の理解を求めて」 橋本憲尚 編著  佛教大学

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