2017年1月17日火曜日

政治学入門 科目最終試験④⑤⑥

         政治学入門 科目最終試験④

集計民主主義について論じろ

民主主義は、国民の中から選挙によって選ばれた人が、国民のためを思って政治を行う形態で非常に理にかなっていてもっとも国が安定するものと思われた。しかし、選挙での得票や議会での議席数といった「数」による政治決定に疑問も少なくない。仮に厳密な調査方法を用いて行ったとしても、それを国民の「真の意思」とし、それに基づいて政治の重要決定を行うことに対して、常に疑問がつきまとっている。

同じことが議会制民主主義、政党政治に対しても問いかけられている。国会で過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数に届かなくても、他の政党と連立を組んで多数を占めることで可能になる。こうした政党政治の在り方に対して、そこはかとない疑問を多くの国民が抱き始めているのではないだろうか。

こうした現在の民主主義を集計民主主義と呼び疑問を呈する論者もいる。こうした「集計民主主義」とも呼ばれる「数による政治」への処方箋として、討論や討議が必要とされる「討議(熟議)民主主義」の考え方が位置づけられるとはいえないだろうか。たとえば国民投票や住民投票もそれ自体が問題なのではなく、安直にそれに頼ることが問題だ。したがってそうした直接民主主義の問題の処方箋は投票が決する以前にいかに十分な議論がなされるかというところにあるだろう。なぜなら事前の議論と討論のなかで、自らと異なる主張や意見に接することが重要であるし、またそのなかで自分や他人の主張や意見も変わる可能性があるからである。議会政治でも同じだろう。単に「数による決定」ではなく、それに至る議論が十分に行われたかどうかが重要なのだ。したがってその議論の過程で時に政党の枠を越えて賛否が変わることも否定されるべきではないだろう。

政党は市民社会に対して、政党は市民社会に対して大きく道を譲ることで、行き詰りつつある現在の政党政治と民主主義に新しい道を開くことにはならないだろうか。そしてそれはもちろん、討議民主主義とも反する方向性ではない。その意味で政党そのものの存在意義を大きくみなおすことが必要だ。



          政治学入門 科目最終試験⑤

日本の男女平等参画政策について論じなさい

平成11年に「男女が社会の対等な構成員といって自らの意志によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ共に責任を担うべき社会を目指す」といった内容の、男女共同参画社会基本法が定められた。
 つまり、労働市場への女性の参加だけではなく、男性が家事・育児・介護などに参加できることも男女共同参画なのだが、そうした理解は広がっていない。
この男女共同参画が十分に浸透しなかった理由に「男女共同参画は働く女性の支援という印象」を与えてしまったのである。
 
 同時に男性が妻に対し「子供ができてからもずっと職業を続けるほうがよい」とする割合は92年と02年の調査でほぼ倍増し、実際妻に高収入を求める男性も今や多い。リストラや賃金カットで、男性一人で家計を支え切れなくなる不安が関係していると考える。また、男性の育児参加も1%代とまだ目標達成には程遠い。むしろ近年子育て期男性の労働時間は伸びている。厚生労働省は父親に育児の参加を求めながら、それを可能とするような労働時間規制を行っていないからだ。

 これから女性の労働力抜きには今後さらに進む少子高齢化を乗り切れないとの認識が普及したため、政府はこれから女性の戦力化への方向性がさらに強まっていくと考えられる。さりとて再び性別役割分業を強化して女性の専業主婦化を促進することは少子高齢化傾向を所与するのならば現実的ではない。
 ワークシェアリングなどを通じて男性も今より短く働き家庭責任を終えるような男女共同参画を男性の働き方をも含む企業社会全体の見直しを伴うものとして定義しなおす必要がある。


          政治学入門 科目最終試験⑥

小選挙区制度について論じなさい

選挙制度にはさまざまな方法があるが、日本の衆議院選挙を例にすると、小選挙区制と比例代表制を組み合わせて行われる。小選挙区制では、一つの選挙区で一人だけ当選する。
長所としては選挙区が比較的狭いため、選挙費用も低くきめ細やかな選挙運動が可能である。大政党に有利で政権が安定すると言われる。端緒としては、死票が多くなり少数意見が反映されにくい。現在衆議院議員選挙では、小選挙区制と比例代表制を組み合わせた小選挙区比例代表並立制が導入されている。

もう一つ大きな小選挙区制度の問題がある。それは得票率と議席率との間に乖離が生まれるという問題が指摘される。しかし、同時に限られた民意の移動で議席の大逆転が起こることも問題である。無党派数がすでに過半数を超えている日本において民意の移動が増幅されて議席移動を起こしやすい小選挙区制の特性の持つ意味はきわめて重大である。現在の無党派層の中核を構成しているのは、政治的関心が高い「積極的無党派層」である。「積極的無党派層」の投票行動は、政党支持からは独立しており、常に同じ政党に投票するとは限らない。その投票行動は、政党支持からは独立しており、常に同じ政党に投票するとは限らない。その投票行動の変動が、民意の動きに過敏に反応する小選挙区制の特性と連動した時、政治への不安定化へとつながる危険性は否定できない。このように考えると、小選挙区制と二大政党制は、政権交代の必要条件ではあるかもしれないが、安定した政権運営の十分条件では決してないのである。

政治学入門 科目最終試験①②③

          政治学入門 科目最終試験①

住民投票の可能性と限界について論じよ

選挙で選ばれた代表者が志向する政策と社会が望む政策との間に、ズレが生じることは、十分に起こりうる。実際、社会の少数の人が望んでいるにすぎない政策が、あたかも多数派の意思のごとく推進されることは珍しくない。
 このような問題に市民は「おかしい」という素朴な疑問や「放っておけない」という思いから、行動をとりはじめている。そのようななか、市民が注目している一つの手法がある。それは直接民主主義的な手法である住民投票である。住民投票は民意と代表者の意思の間のズレを確認するうえではもちろん、市民の意識と知識は住民投票において妥当な判断をくだすことをかのうとするところまでその水準を高めていると考える。
 

 しかし、住民投票には限界がある。事例の一つに、袖ヶ原市が実施した区画整理事業の是非を問う住民投票では市民が積極的に議論や投票に参加したことで、反対多数という結果に終わった。この事例には住民投票の有効性を発表した一方、その限界も一緒に発表している。それというのは反対多数の結果はまず事業を「止めた」だけであり、ただちに事業の今後を方向付けるものではなかったからである。それも無理はない。住民投票で反対票を投じた人の間では、事業の白紙撤回を望む人から、条件付で事業を容認してもよいという人まで、かなりの考え方の幅も認められるからである。その結果この住民投票は、民意が「現在の計画に反対」する以外に何を求めているのかを表現できていない。つまり、行政や議会がだしてきた政策にブレーキをかけることはできるものの、統制型の住民投票には場合によっては「では民意はその先に何を望んでいるのか?」という問いへの答えを必ずしも出せない限界があることがわかる。



          政治学入門 科目最終試験②

国境を超える市民について論じろ

現代では国境を越え、グローバル化が広がり、市民の連帯運動が活性化している。その背景には、環境破壊や貧困、軍事紛争といった問題自体がグローバル化していることもあるが、大型ジェット機やインターネットの普及によって、市民が国境を越えて連帯する手段がはったつしたことも影響している。アメリカを中心とした先進国の国益追求と、それに連携した世界銀行やIMFWTOなどの国際機関、そして多国籍企業のグローバルな活動はまた、世界中で詩移民のグローバルな対抗運動を活発化させている。
 
このような個々の課題や行動の展開とともにグローバリズムを問い直す運動も活発化している。それはグローバル化が進めば、貧富の差が生まれたり、文化の後退が余儀なくされることから反対意見は生じ、グローバルな経済と政治について交渉や話し合いをもとうとするたび世界中から異議を申し立てる市民が集まる光景がみられるようになってきたからだ。 これは市民にすぎず、国家規模でグローバル化の弊害を是正する動きも浮上している。

 そのような対抗グローバリズム化を制御し、「もう一つの世界」を作っていくことはできるのであろうか。そのためには、積極的な変革のビジョンに基づいた制度的変革に取り組むことが必要であろう。国家レベルでのグローバル至上主義のコントロールを可能とする改革も避けて通れない。また、市民の意識や生活スタイルを含めた市民社会レベルでの変革も重要である。
 その意味でグローバリズムの現状を根本的に転換するには、対抗する市民の側にも構想力や政策的思考、実践力が求められている。



          政治学入門 科目最終試験③

スローな民主主義について論じろ

現代の民主主義を実質化したいと考えるならば、決定(採決)の前には十分な議論が行われることが理想である。さらにテーマによっては議論の前に十分な予習(調査、研究、熟考)が必要になってくる。よって十分な余暇がなければ、民主主義、とりわけ参加型の民主主義は成立しない。近年政治学では「熟議民主主義論」が盛んになっている。「熟議」とは「熟慮」+「討議」の意味である。もしも「集計」だけが民主主義の命だとすれば民主主義の過程はいくらでも技術的にスピードアップが可能である。しかし「慎重な討議」を欠いた民主主義は健全な民主主義とは言えない。現代においてとりわけ熟議民主主義の発展、ゆっくり時間をかけた討議や後のクールダウンのための時間貯めが必要とされるだろう。

現代での議会制民主主義では一般に「投票」中心の性格を有している。選挙はわたしたちの私的な選考(利益)を投票によって表明しその集計結果が複数の政党間の議席配分へと変換され、与野党関係がきまる。議会の機能はハーバーマスの批判のとおりその「審議」機能よりも「表決」機能に重心がおかれ(審議の過程は法案の成否に大きな影響を与えず)議席配分が議場での投票を介して政策決定へと変換される。要するに全体として多数決による「集計」の過程として理解することが可能なのである。

本来民主主義の根幹にあるには「大事なことは自分で決めたい」という私たちの「自己統治」の願いであり「自分が参加しない意思決定によって影響を受けるのは納得できない」という自立の欲求である。わたしたちの意見は熟慮を介してまた他者との真摯な討議を通じて初めて確固たるものに成長する。そのうえで行政は国民参加の内容や質の向上に向けた仕掛けつくりをし、また熟議のなかで意思形成のどの段階で正当性を調達しどのような成果を期待するのかを明確にし整理していくことで熟議民主主義の発展につながると考える。



自立学習入門 A6001 A判定

設題:1.「考える」ためには「問う」能力は欠かせない。この「問う」能力を高めるために「読む」能力と「書く」能力が必要である。このことを自分の学習経験や仕事に照らし、具体的に説明しなさい。

はじめに
佛教大学通信課程に通うにあたり、自宅学習が今後の中核であり、学習生活を自ら管理しすすめていかなければならないというところに、通学方式の大学と大きな違いがあると考える。情報を正確に理解する、読む能力。自分が他人に伝えたいことを正確に伝える書く能力。質問をする、疑問をもつという問う能力。この3つの「読・書・問」という学習の基礎ともいえる三つの能力のそれぞれの特徴や関連性を自らの経験を交え以下より論じる。

1 「問う」ための「読む」「書く」能力
解決したい問題に直面した時、まず「何を研究するのか」「何を考えるのか」自分に問い、解決策を考える。学習生活でいえばテキストを読むときには「この文章で大切な個所はどこか」という事が問題になり、リポートを書く場合にも「何をどのようにかいたらいいか」という問題について「筋道を立てて思い図る」あるいは「頭をはたらかせて判断する」はずである。すなわち「問う」ことは考えることの出発点であり「問う」ことによって考えることができるようになる。ここで「問う」という言葉を選ぶのは「考える」という言葉は多義性があり、必ずしも知的な思考だけを意味しているわけではないことと、もう一つに考えるという言葉を知的な思考の意味に限定して使うとしても、その方法と技術については「読む」「書く」と同じ次元で述べることができないからである。(参考:基礎教育I-VR 第13回)そして、解決するために他から与えられる情報を正確に理解する「読む」能力が必要とされる。情報とは文章に限らず、記号や数式はもちろん、絵や写真、映像からもだ。さらに正確に読解するには読む方法を知り技術も必要になってくる。次に読み取った情報を正確に確実に他に伝えるため、「書く」能力を使う。単に文字や文章を書くという事ではなく、スピーチやジェスチャーや顔の表情で伝えたり、コンピューターを駆使して自分の意思を伝達することもある。
特に、「問う」の能力については、この能力なしに他の二つの能力の向上は期待できない。「問う」とは問題を自覚し、発見しその解決を意識的に求めることだ。つまり、問うためには与えられた問題を解決するための「問題解決能力」とは別の能力、「問題発見能力」が必要であると言える。相手に正しい答えを期待する質問をもったり、知的な思考を行う場合において他から与えられる情報を批判的に受け取り、常識や曖昧さ、根拠、矛盾、経験を問うことや「もし」を問うこと、異論を問うことなど「なぜ」を問う姿勢を持ち続けることも大事だと言えるだろう。問題を発見できたところで、深く考え読み解き、知識はより深いものとなり、書く内容は問うことによって明確になる。逆に「読」がなければ「問」はないし、かくことによってますます「問」は明確になるともいえるだろう。これにより、「読・書・問」の三つの能力は独立しているものではなく、それぞれが連動して活発に働いており、いわば螺旋状に向上していくものであると言える。

2.「読む」「書く」「問う」の能力と自分自身の経験
1で論じた三つの能力は学習に限った話ではなく日常生活においても大切なことだと考える。私がアルバイトをしていた時にもこの能力の大切さに気付いたことがある。初めての飲食店での接客業で、右も左もわからなかったが、忙しい職場であったためなかなか仕事のことを周りの人に聞けずにいるとき、仕事を覚えるのが遅く、逆に迷惑をかけていた。しかしこのままではいけないと追い込まれたときに考え、積極的にわからないことは人に聞くように努めた。「なぜこの場合はこの仕事をしなくてはいけないのか」「この行動にはどういう意味が含まれているのか。」そして、教えてもらったことは深くもう一度頭の中で整理してから正確に理解するようにし、自分の考えを誤解がないよう言葉で表したり、メモをとったり、どこまで理解ができているか正確に伝えるようにも注意した。受け身ではなく主体的に疑問を解決しようと動いたことにより、問題が解決して対人関係を円滑にしたのはいうまでもない。疑問を周りの人に「問う」、教えてもらった情報を「読む」、自分の考えを正確に「伝える(書く)」。このことから三つの能力は学習はもちろん日常生活にも必須であると言えるだろう。これは一つの例であったが、なににおいてもまずは何とか解決しようという姿勢を忘れないようにしたい。

設題:「問う」能力を高めるために、印刷メディアやインターネット端末機器などをどのように活用しているか、いないか。自分の学習経験や仕事を例にして、今後の学習課題を書きなさい。

3.「問う」能力とメディアとの関係
「問う」能力を養おうとすれば、自然に浮かんでくる質問や疑問だけでなく、意識して「問い」を探すこと、そして知的な思考を行う場合には、やはり他から与えられる情報を自覚的な努力をもって批判的に受け取り、「なぜ」を問う姿勢を持ち続け、またその解答を見出す方法や技術を学ばなければならない。昨今のマルチメディアの発達により、昔と比べてはるかに問いを持った時には答えを導きやすくなった。特にインターネットはだれでも、どこでも、誰からでも情報を仕入れることができるユビキタス社会の象徴であるといえるだろう。(基礎教育I-VR 第15回)インターネットにつながるのはコンピューターだけではない。身近なものとして常に持ち歩いているスマートフォンをよく活用している。これにより、わからないことが3分ほどで解決できることも少なくない。印刷メディアよりスマートフォンを使って疑問を解決するほうが最近では多いが、便利がよすぎるゆえ、自身が忘れそうになることがある。それは、「なぜ?」と思うことは知識への渇望をもたらし関連知識を強烈に吸収する原動力にはなるが、簡単に答えが分かってしまうことから知識を得ること事態が目的化し、そこに達成感が生まれて終わってしまう。深く読み取ったり、その知識を踏まえ行動に移さないのである。そしてもう一つは、沢山の情報が蔓延っているので情報の取捨選択が難しいことだ。しかし、インターネットをはじめマルチメディアは学校生活においても欠かせないものである。情報の受発信だけではなく様々な活用方法があり、広範囲に及んでいる。うまくこの便利なものと付き合っていくためには、頼りすぎないことと受け身ではなく主体的に問うことを気を付けたい。情報化社会において自ら疑問を持ち主体的にある程度の努力を持って解決しないと情報に振り回されがちだからだ。

4.今後の学習課題
佛教大学では学習意識が高いながらも自己管理を一人で続けることが困難になり学業の半ばで学ぶことをあきらめなければならない人もいると聞く。実際に私自身も学習の進度や継続に不安がある。以前通学性の大学に入学したものの途中で中退をしたことがあるが、今思うと学習意識が低かったのはもちろん、この単元で学んだ「読む、書く、問う」の3つは成立していなかった。特に問うに関しては積極性が足りず、欠けていた。それをふまえ、まず「問う」能力の向上のため、意識して「問い」を探し、またその解答を見出すためのメディアとの付き合い方を考え、次に読みたいように自己流に読むのではなく、書かれている文字や数字や記号を手がかりに内容を正しく理解し、自らの「読む」技術を向上させたい。そして最後に、正確にものを伝える「書く」能力だが3つの中で最も苦手なことであるので、根気よく地道にこなしていきたいと考える。

5.参考文献
基礎教育I-VR vol.1
基礎教育I-VR vol.2

自立学習の手引き 読む・書く・問う 公益財団法人 私立大学通信教育協会

文学入門 A6102 A判定

第二設題 近現代の作品の中から二つの章を選びその各々について次の問いに答えよ。
作品名 『震災』 永井荷風
全文
今の世のわかき人々 われにな問ひそ今の世と また来る時代の芸術を。   われにな問ひそ今の世とまた来る時代の芸術を。われは明治の児ならずや。 その文化歴史となりて葬られしとき わが青春の夢もまた消えにけり。 団菊はしをれて桜癡は散りにき。 一葉落ちて紅葉は枯れ 緑雨の声も亦耐えたりき。 円朝も去れり紫朝も去れり。 わが感激の泉とくに枯れたり。 われは明治の児なりけり。 或年大地俄にゆらめき火は都を燬きぬ。 柳村先生既になく 鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。 江戸文化の名残烟となりぬ。 明治の文化をまた灰とはなりぬ。今の世の若き人々 我にな語りそ今の世と また来む時代の芸術を。 くもりし眼鏡ふくとても われ今何をか見得べき。 われは明治の児ならずや。去りし明治の世の児ならずや。

鑑賞文 この詩にはたくさんの芸術家が登場する。 團菊→歌舞伎の九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎 桜癡→福地桜癡 一葉→樋口一葉 紅葉→尾崎紅葉 緑雨→斉藤緑雨 團朝→落語の三遊亭円朝 紫蝶→新内節の柳家紫蝶 柳村→上田敏 鴎外→森鴎外 
永井荷風が親交のあったこれらの芸術家を連ね、関東大震災によって何もかも奪われたという切実な思いを書いている。後半部分を現代語で解釈してみると「曇った眼鏡を拭いても綺麗にしても、私には今何を見ることができようか?時代が変わった今の世の価値はわたしの目には何も見えない。私には明治が育んでくれた明治の人なのだ。明治に在った価値が、震災で消えてしまった今の世には、私には見えない、理解ができない。私はすべて消え去った古い、明治の人なのだ。」と訳せるだろう。荷風が関東大震災を江戸期から脈々と受け継がれて明治期に大輪の花を咲かせた歌舞伎や落語や戯作などの庶民文化や、荷風自身もその一翼を担った新時代の文学・芸術などの「喪失」として捉えている視点が鮮烈である。これほどまでの喪失感に、荷風が育まれ、魅惑されてやまなかった明治の文化への愛を感じることができる。荷風の「明治の児」にこだわるのは、後世からすれば時代が変わると断絶・変化に目がいって連続性はつい見過ごしがちになるが芸術や文化には流れがあり忘れてはいけないという気持ちがあるのではないだろうか。また、「われは明治の児なりけり」というひょうげんであったものが終盤では「われは明治の児ならずや」と繰り返されている。初めは断言した意味合いであったが、後では打消しの「ず」と係助詞「や」がついたものであるから「われは明治の児だろうか(いや明治の児だろう)」というように作者自身が自身に問いかけ、また再確認を繰り返し行っているような印象を受けた。日本人の国民性は謙虚で勤勉であるが時におおきなものの流れに流されていくような性格があるとよく聞く。荷風は時代が流れ、震災が起こり文化が消え行ってしまうさなかでも自分自身に自分は明治の時代の人間なんだと言い聞かせ、ある意味頑固にストイックに自分を貫き通すような人物ではないだろうか。また、私たちも時に荷風の生きざまを見習わなければならない。

作品名 「サーカス」 中原中也
全文 幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこにひとつのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて汚れ木綿の屋根のもとゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が安いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻と ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
野外は真っ暗 暗の暗 夜は劫々と更けまする 落下傘奴のノスタルジアと ういあーん ゆよーん ゆやゆよん
鑑賞 全体的に非日常のかそかなる光景を謳いあげることで、暗い時代に生まれた自分たちを曝け出そうとしている詩ではないかと考えた。幾時代とは現実の人類の歴史であるが詩人はその現実から離れ飛翔する。そうすることで悲惨な戦争もまるでセピア色に変色した過去の思い出写真のようにみえる。つまり「茶色い戦争」とは目に色鮮やかに思い浮かぶ辛い戦争も今は茶色の暖かく見守れる古ぼけ色あせた写真に変われるほど人々の中では戦争はもはや歴史に変わったのではないかと感じた。二節ではいくらでも辛い冬のような時代がありさらに突風が吹いている中、今は現実から飛翔しサーカスという非日常に浸ろうとしているのが分かる。また「幾時代かあがありまして」という句を繰り返すことで物語的な雰囲気が醸し出され、その物語は遠い遠い過去を起点として始まるという事を感じさている。その遠い過去にあったことは「茶色い戦争」でありまた冬に吹く「突風」である。その二つの隠喩には作者の中に残っている苦難や失意であろうか。「サーカス」というワードが度々登場するが「非日常」を表すたとえであることは間違いないだろう。サーカスというと今はすっかり見なくなったが昔は街々を移動して広場に大きなテントを張って人々をたのしませてくれたものだ。サーカスが来れば、必ずみんなが喜び心浮き浮きとその開演を待つだろう。一時現実の辛さや苦しみを忘れさせてくれる象徴ともいえる。特にその演目の中で皆が楽しみに待ちわびスリルに興奮した空中ブランコ。作者はその最大の演目を「見えるともない」と表している。ここにおいて作者がさらにサーカスの非日常でさえも離れ飛翔を再開したことを示している。そうするとあの手に握るスリル満点のショーが途端にその本質的な安っぽさを露呈する。その擬音が激しくダイナミックで素晴らしいはずのブランコであるはずなのに、「ゆあーん」等で表されているところではないか。またこの擬音にはどこかさみしさのほかに不気味さや不安な心情を感じた。また薄汚れたテントの安っぽい木綿が気にかかる。真剣に演技する人間を照らし、輝かせるための照明の強い光はかえって安っぽさを見せつけさらに華麗に笑顔で軽々とショーを見せている演者が実は必死になっている姿を晒してしまっているのだ。さらにそれを夢中でみている観客は人間の知性のようなものを失った状態であり、緊張して唾をのみこむ様は堅苦しいガチガチという音が聞こえそうな無様さだ。一方テントの中は熱気あふれる夢のような空間であっても、外の現実は暗く、また観客たちが夢中で過ごすほどにますます暗くなっていく。墜ちいく人間、暗くなる時代。その中で一時の過去の美しい思い出に浸る人々の哀れさや悲しみを感じる。また一つの可能性ではあるがブランコに乗っているのは作者という事は考えられないだろうか。場末のサーカスでそのブランコは「見えるともないブランコ」であるということは実際に存在しないのかもしれない。「ゆあーん」等擬音も作者の心情を表しており、作者の心の中は不安定な状況とも考えられる。そしてこの擬音からはゆったりと自分の芸を披露しそれに魅了される観客。その観客を「観客様」と作者はまずもちあげそのあとで「鰯」とたとえる。また歓声を牡蠣殻が鳴るようだと嘲笑しているようにも感じる。
最後の一連は特にそれまでの連とは様子が違う。つまり、作者の視点がサーカスの外に動いているという事があげられる。「夜はますます更けまする」とあるがまだこれ以上に「真っ暗」になっていくことを暗示する。そんな中サーカス小屋は「楽下傘奴」とたとえられ空から降ってくるよう描かれますます現実味を感じられない。あるのは「ノスタルヂア」のような作者の気持ちのみだ。作者は不安定な心境の中、ただ故郷を思い浮かべているのであろう。消えてゆくものをみつめながら「サーカス小屋」を「ノスタルヂア」=「故郷を懐かしむ思い」ととらえ、決して戻らないあの遠い時代に感じたやさしくあたたかな心の中のふるさとと向き合っているのかもしれない。


参考文献 声に出したい日本語 斉藤孝 草思社

文学入門 A6102 A判定

第一設題 古文(漢詩・経典などを含む)作品の中から二つの「章」
を選びその各々について次の問いに答えよ。
1 作品名を記す 「おくのほそ道」

2 全文
『おくのほそ道』 松尾芭蕉
 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。(1)船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。(2)古人も多く旅に死せるあり。(3)予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、(4)・・・
行く春や鳥啼魚の目は涙 (5)
夏草や兵どもが夢の跡 (6)
五月雨の降りのこしてや光堂 (7)
蚤虱馬の尿する枕もと (8)
閑さや岩にしみ入蝉の声 (9)
暑き日を生みにいれたり最上川 (10
荒海や佐渡によこたふ天河 (11
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (12

3 鑑賞
(1)百代→永遠 過客→旅人 。 (2)馬の口とらへて老いをむかふる物→馬を使って貨物を運搬する人のこと(馬方) (3)古人→風雅の道に生涯をささげた昔の人々。李白・杜甫・西行・宗祇などのこと。 (4)漂白→流れ漂う事・さすらい歩くこと (5)鳥啼魚→鳥も魚も (6)兵ども→義経ら武士 (7)五月雨→梅雨 光堂→平泉中尊寺の金色堂 (8)蚤虱馬→ノミやシラに食われている 尿→当時獣類の小便を「ばり」といい、それを「尿」と漢字表記して地名の尿前(しとまへ)にかけた (11)佐渡→流人の島と知られる佐渡島 (12)蛤のふたみ→蛤のふたと身 行秋→秋が過ぎ去ろうとしている季節                                    「おくの細道」は元禄二年に江戸を立ち、東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文である。(1)の文より月日は永遠と旅する旅人のようであり過ぎ去っては新しくやってくる年もまた旅人のようだと言っている。芭蕉にとって人生は旅だと、とらえていたに違いないだろう。また、(2)から船頭や馬子の旅の中で生きる生活にあこがれを感じているのではないかと考えた。そして芭蕉が尊敬していたとされる先人の宗祇や杜甫などが旅の途中で死んだように、あこがれを感じていたのならなおさら芭蕉も又旅に生き旅に死ぬことを望んでいたかもしれない。                                                               (5)は流浪の旅に出ることを願っていた芭蕉が、船を千住で降り、矢立初めに詠んだ句である。旅に出ることでたくさんの人に見送られ、鳥は啼き魚さえも涙に濡れるという意味が込められているが、初めて見たとき、この句からファンタジーのような印象を受けた。なぜなら「行く春」という現実的な想像が膨らむ春の光景が頭に浮かび、鳥啼という部分からは季節柄ウグイスの鳴き声が聞こえるが、「魚の目は涙」という部分で一気に現実的なイメージから離れ容易に断言できない想像上の泣いている魚が頭に飛び込んでくる。このような心の中でしか作ることのできない想像やイメージに芭蕉のユーモアな部分が見れる。          (6)の句は奥州藤原氏の栄華の儚さを思った句とされ、夏草という季語に託された緑色に輝く初夏の緑が脳裏に浮かぶ。兵とは源義経のことだが、当時新設されたばかりの義経堂がたっていたがきっと芭蕉には義経堂など眼中になかったに違いない。(7)では対照的に光堂は時間の浸食に耐えまばゆい姿だと表現している。そして単に鞘堂のなかで光り輝く光堂の美しさに感動したのではなく光堂を後世まで残そうとするこれまでの多くの人々への感謝の心が感動となったと考え、きらびやかな栄華より心の美しさを美とする人柄を持つ人物だろうと推測する。      またそんなおだやかで心優しい芭蕉の性格は(8)の句にも表れており、長旅を共にし一つの家で寝食をする馬への思い入れも漂よわせている。芭蕉の句には(8)のような現実的で親しみやすい句もあれば精神の世界に入り込んでいくような句もあり、それが(9)の句だ。というのも、(9)の句では後ろで大音量で蝉が鳴り響いているにもかかわらず「閑けさや」と表している。賑やかな蝉の声もなにもかもすべて岩にしみ入りあるのはただ静寂のみであると読み取れるだろう。「しみ入る」という流動感あふれる言葉にはさらに芭蕉自身も岩にしみ入るような精神の極地にたっているような印象も受けた。             (10)の句は大変スケールが大きい。 大河が海に流れ込む様には涼感を感じるし、日没の日本海を想像するとダイナミックだ。芭蕉は旅を続けていてこのような自然あふれる光景を幾度も目にしただろう。特にこの句は読むだけで自分がその場にいて大河の流れや夕日の真っ赤な情景が頭に浮かび日常の暑さとともに辛いことや悩みなども最上川に溶けだし海に流れるような気持になる。 (11)の句も(10)とともに実景ではなく心象情景である。(11)の句は類推するに夜半に佐渡を望んで詠んだわけではなく寝所で詠んだとされるが(参考文献 銀河の序)、宵にみた月明かりに照らされた佐渡・荒海・天の河を布団の中で思い出し、旅愁と古人に思いをはせながら詠んだ心象風景なのかもしれない。天の河を佐渡への架け橋ととらえるか、荒海と同じく佐渡と芭蕉を隔てるものと考えるのかたくさんの推測ができ、それにょってまた芭蕉の心情も変わりおもしろい。(12)の句は(5)の句と対になり旅の終わりと別れを表す。どれも300年以上前に詠まれた句であるのにどれもその場の情景がありありと思い浮かび、またその場の音まで頭に流れてくるように感じた。松尾芭蕉の今でも語り継がれる句の魅力にはすばらしい感性があった。                                   作品名 「枕草子」                        全文 春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。 夏はよる。月のころはさらなり。やむもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのこにうちひかりて行くもをかし。秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあわれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず。冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。                 鑑賞 あけぼの→よるがほのぼのとあけようとすること やうやう→だんだん・しだいに 山ぎは→山に接する空の部分 さらなり→言うまでもない をかし→趣深い 山のは→空に接する部分 あはれなり→しみじみとした趣がある つとめて→早朝 つきづきし→似つかわしい・ぴったりしている 火桶→丸型の火鉢 わろし→よくない         枕草子を読むと、清少納言の自分の感覚をしっかりと信頼し言葉に表す表現に、女性の中の潔さを感じる。春夏秋冬の中にある自然のそこはかとない一瞬を切り取ったり、そこにある空気を表現する。冒頭「むらさき立ちたる雲の」では夕暮れの真っ赤な空と違って、夜空の青と朝の陽ざしが混ざり合った情景が頭に浮かぶ。また夏の部分で、ほたるを「ほのかにうち光て行くもをかし。」とひょうげんするところでは電気の明かりがない平安時代の夜はどんなに暗かったことだろうかと想像もつかないが、そんな夏の夜月明かりに照らされた光景はさぞや幻想的であったに違いない。さらに月明かりがないくらい夜ゆえに強調される蛍の光は平安の人々にとって美しく、今でいう「癒し」に思えたのだろう。秋の部分では、夏にはなかった音が聞こえてくる。風が葉を揺らす音や虫の音など。まさに五感すべてをつかって読む文献といえるだろう。千年も前に書かれたものであるのに、現代の女の子同士の会話のような軽快な筆致で進み、そして今に通じる普遍性がある。日々私たちは便利なものに囲まれ毎日忙しく過ごしているが、一日一日四季のうつろいを感じ心を豊かにしていくよう、清少納言の過ごし方を学ばなければならない。                              参考文献 声に出して読みたい日本語 斉藤孝 草思社             

哲学入門A6101 A判定

第二設題 全6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ(1,600字ほど)。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。

      「瞬間と想像」 加國尚志 要約
「連続」の問題を「私」と「時間」の観点から考察する。デカルトの有名な「われ思う故にわれ在り」という言葉通り、彼は知識の確実な根拠を求めるために疑わしいものはすべて偽りと」してしりぞけるという基準を採用し、外科医に存在する一切のものに懐疑を差し向ける「誇張的懐疑」「方法的懐疑」を行う。
デカルトは「私」は何事かを考えているとき、その何事かは偽であったり、存在しなかったりすることもありうるが、それを考えている当の私だけは存在しないものではありえないものであると考えた。ここで、「私」が「考えるもの」と定義されることによって「私」は存在するという事に時間性としての規定が与えられることに注目する。問題はデカルトは「私」の「存在」に「考える間」という「持続」を与えたかどうかであるが、デカルトにとって時間とは全く依存関係を持たず、決して同時に存在しないものである(「哲学の原理」第一部21 R.デカルト/井上庄七・水野和久訳「哲学の原理」中央公論社(世界の名著)22デカルト)とされるようだ。しかし一方でデカルトは「私」の外部に、私の存在が確実であることの原因となり私だけでは不可能な連続性を可能にする「神」の存在を認めている。神は「私」を瞬間瞬間に想像をしつつ保存をしてくれるものであるから、かつてあったことを思い出そうとし、初めて持続が得られ、「私」は適用していくと考えたのだ。こうして「私は考える」「私はある」の「今」は時間の本性から考える限り前後まったく存在しない各瞬間としての「今」を指すかのように見えるが、私の存在の原因である、無限にして完全な神の本性から考える限りそれらの各瞬間が保存=創造された持続である、と結論付けた。
 ここでライプニッツの主張をみる。ライプニッツはわたしたちの心がデカルトの機械論的・力学的な原理とは異なった独自の原理を持っていることを主張している。デカルトが瞬間瞬間が保存される垣存性を重視し、その説明のために「神」をもちだしたとするのならライプニッツは私達の表象の移行そのものに変化と連続の原理を求め、無限にただの保存の原因としてではなく変化の連続に内的なものをとらえていたということができるだろう。つまり、連続している、ということは保存されていると同時に変化もまた生み出すのである。
 ライプニッツはさらに、形而上学的な大原理を問う。それは「なにゆえ無ではなく、むしろ何ものかがあるのか」という問いである。このなにものかがあるということの「根拠」あるいは「なぜ物はこのように存在し、別のように存在しないのか」ということの根拠をライプニッツは「十分な根拠」と呼んでいる。ここでライプニッツはこうした「十分な根拠」は物質の因果系列の外部にあるとしてそれを「神」と呼んでいる。神ということで、ここでは究極の原因と置き換えてもよい。
 最後に、ライプニッツが「私」の人格保存について言っている「形而上敘説」をみると彼は「私」が道徳的に保存され同じ人格でありつづけると主張する。記憶あるいは自己認識という形で「私」の人格が保存されるのでなくては私達はなにも期待することはできないことになる。なにも期待できないのであればはたして道徳的な努力は生まれるであろうか。ライプニッツの形而上学的はここで道徳の問題と結びつくのである。
 こうした形而上学の枠組みそのものを変革したのがカントである。カントが物自体と現象を区別し人間の理性的な認識を、直観の形式としての時間と空間を通じて与えられる経験の範囲内に限定したことは、デカルトやライプニッツが神にことよせながら実態の垣存を語り、因果性や相互作用について語ったことがらを、人間理性の範囲内で語らねばならないという事を意味する。そこでは時間は人間の内官の「形式」としての時間である。神に頼らないで実体の垣存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとしたのがカントである。そこでは、時間は、創造の説からも、予定調和の説からも離れて、認識としての経験の可能性の条件と考えられるのである。この意味でカントの哲学はデカルトの哲学が哲学史につけた折り目をさらにもう一度折り返したと言える。

考察
上記の要約を終えた時点で疑問が頭に浮かんだ。デカルトについて「「われ思う故にわれ在り」という言葉通り、彼は知識の確実な根拠を求めるために疑わしいものはすべて偽りと」してしりぞけるという基準を採用し、外科医に存在する一切のものに懐疑を差し向ける「誇張的懐疑」「方法的懐疑」を行う。」とのべた。デカルトがひとつひとつに疑いの目をもちそれを信じず探究し続けこの考え方は今の技術や医学におおいに役だっているという。しかし、なぜ「我」を疑わなかったのであろうか。真っ先に今考えている自分自身のことを疑問に思わないだろうか。それがただの肉体か精神であるかはわからない。また我が何かを「思う」にしても何かしらの五感からの刺激や感情あってこそである。それを受け取る側である我というものを据え置きしすぎなような気がした。高度な脳・神経の認知システムを形成した人間、「記憶と言語と大脳新皮質からの派生した精神」という心の高次機能に限定された存在であるからこそつじつまがあう存在論ではあるだろう。世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは今のことを考えている自分自身だと考えたデカルトは少し説明不十分だったかもしれない。
 そしてもう一つの疑問がある。「我思う故に我あり」という言葉で、私自身の怠けた考えであるが、考えないと自己は確立しないのだろうかという疑問である。つまり、私自身考え事をしていない時間のほうが圧倒的におおい。より豊かな人生を得るために考察、勉強は必要なのであることはわかるが目の前のことを無心でただひたすらとこなすときもある。仏教の教えでも邪念をすて心に浮かんだものをただ浮かぶに任せ明瞭な意識のまま一切の努力を止め時のくるまで一切座るという修業があるそうだが、その修業時に彼らは存在していないとは思わない。デカルトの疑い深さに少々驚くこともあるが、彼の言葉にはある意味ストイックな性格が表れているのではないだろうか。そうでなければすべては夢なのではと疑わないし、考えている間だけ自分が存在すると主張してしまえば何も考えていない普通の状態のデカルト自身を批判していることにはならないだろうか。
 上述でデカルトの言葉は少々言葉不足で、ストイックな性格のあらわれではないかと述べたが、違う観点からみると、この言葉がただの風変わりな発想でしかなかったらこれほど有名で人気な言葉にはならなかっただろう。それまで哲学が究極の目的にしていたのは心理を見つけることであった。しかし真理は確実なものでなければ意味がない。確実なものとは真理に勝るなにかであり、ぎもんという試練にパスした真理だといっていい。けれどあらゆる疑問を解消することは決して容易ではない。周囲のあらゆるものをみていてもそれが幻覚ではないと実際誰も証明はできない。人生そのものも夢かもしれない。意識と実在、あるいは主観や客観の問題はいまだ明確な解決にはいたっていない。しかし主観の存在を確実とするならば、確実であればあるほど客観的に存在していると感じられる物質的なものがどうして我々に認識できるのかということの確実性は失われていく。そんなことを考えたら自分という存在だけはまず認め、考えを深めない限り議論は進まない。すべてのことを疑った末に残ったこれだけが確実な真理でありこれを出発点としてデカルトは哲学を構築しなおしたいわば一般的な理解ともいえるのかもしれない。

参考文献 連続をめぐる哲学 田山令史・斉藤慶典 編著 佛教大学

 

政治学入門 A6105 A判定

第二設題:「集計民主主義」と「熟議民主主義」について論じなさい。

はじめに
現在日本では「集計民主主義」(agreegate democracy)」が主流となっている。その中で、民主主義を謳う国家での物事の決め方が「多数による横暴」となり、あるいは新興諸国での「民主主義の赤字」が論じられたことを背景に、「熟議民主主義」が注目を集めるようになった。以下より設題について論じる。

1.集計民主主義
アメリカのかつての大統領であるリンカーンは「人民の、人民による、人民のための政治」を宣言し、民主主義の根本を築いた。民主主義は、国民の中から選挙によって選ばれた人が、国民のためを思って政治を行う形態で非常に理にかなっていてもっとも国が安定するものと思われた。しかし、選挙での得票や議会での議席数といった「数」による政治決定に疑問も少なくない。例えば昨今頻繁に「世論調査」なるものが行われ、大手マスメディアは週末ごとに「内閣支持率」なるものを調査している。これはしばしば、重要政策の行方や、内閣の存亡までをも左右されるようになった。こうした世論調査の手法に関する問題はさておき、仮に厳密な調査方法を用いて行ったとしても、それを国民の「真の意思」とし、それに基づいて政治の重要決定を行うことに対して、常に疑問がつきまとっている。例えば内閣支持率にしても、発足当初は高い支持率を誇った内閣が、一年足らずでほとんど支持されなくなり退陣を余儀なくされた例を、私たちはこれまで何度も見てきた。このように移ろいやすい「民意」を「数」に置き換えて、重要な政策や内閣の存続の判断基準にしてもよいのだろうか。同じことが議会制民主主義、政党政治に対しても問いかけられている。国会で過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数に届かなくても、他の政党と連立を組んで多数を占めることで可能になる。これまで、「数」にたのんだ「大連立」や「政権再編」の試みが、有権者や国民の手の届かない「政局」というところで行われ、しかも失敗してきた例を、私たちは何度も見てきた。こうした政党政治の在り方に対して、そこはかとない疑問を多くの国民が抱き始めているのではないだろうか。こうした現在の民主主義を集計民主主義と呼び疑問を呈する論者もいる。そして選挙において政党のリーダーによるいわば「人気取り」であり、選挙が人気投票になっていることも好ましくないだろう。こうした「集計民主主義」とも呼ばれる「数による政治」への処方箋として、討論や討議が必要とされる「討議(熟議)民主主義」の考え方が位置づけられるとはいえないだろうか。たとえば国民投票や住民投票もそれ自体が問題なのではなく、安直にそれに頼ることが問題だ。したがってそうした直接民主主義の問題の処方箋は投票が決する以前にいかに十分な議論がなされるかというところにあるだろう。なぜなら事前の議論と討論のなかで、自らと異なる主張や意見に接することが重要であるし、またそのなかで自分や他人の主張や意見も変わる可能性があるからである。議会政治でも同じだろう。単に「数による決定」ではなく、それに至る議論が十分に行われたかどうかが重要なのだ。したがってその議論の過程で時に政党の枠を越えて賛否が変わることも否定されるべきではないだろう。政党は市民社会に対して、政党は市民社会に対して
大きく道を譲ることで、行き詰りつつある現在の政党政治と民主主義に新しい道を開くことにはならないだろうか。そしてそれはもちろん、討議民主主義とも反する方向性ではない。その意味で政党そのものの存在意義を大きくみなおすことが必要だ。

2.熟議民主主義
現代の民主主義を実質化したいと考えるならば、決定(採決)の前には十分な議論が行われることが理想である。さらにテーマによっては議論の前に十分な予習(調査、研究、熟考)が必要になってくる。それだけ長い時間がかかるのだ。「お任せ民主主義」を脱却し、議員(代表)だけではなく多くの市民が政治に参加することが望ましいとするならばなおさらだ。人が集まって話し合うためには時間がかかる。よって十分な余暇がなければ、民主主義、とりわけ参加型の民主主義は成立しない。現代の1で述べたような問題について近年政治学では「熟議民主主義論(deliberative democracy)」が盛んになっている。「熟議」とは「熟慮」+「討議」の意味である。熟議民主主義論はいかにして民主主義の形骸化を避けれるのであろうか。それは形式でお手軽な「集計に基づいた民主主義」と短縮的で硬直的な「利益に基づいた民主主義」を批判することにより始まるだろう。そもそも熟議という言葉はドイツの社会学者ハーバーマスの「熟議の民主主義」が原点だ。彼は戦前のワイマール共和国を例にとりながらワイマール憲法下の最も民主的な手続きの中からナチスの台頭を許したことを反省して熟議が必要であると主張した。大衆民主主義における議会での政治的討議はそれだけでは宣伝や消費の対象とされてしまい選挙も見世物になってしまうこと、本来議会は大切なものを決める場だがもう議会だけでは大事なことを決められない状況になっており、だからこそ民主主義を複線化して議会制民主主義を補完する必要性を指摘したのである。現代での議会制民主主義では一般に「投票」中心の性格を有している。選挙はわたしたちの私的な選考(利益)を投票によって表明しその集計結果が複数の政党間の議席配分へと変換され、与野党関係がきまる。議会の機能はハーバーマスの批判のとおりその「審議」機能よりも「表決」機能に重心がおかれ(審議の過程は法案の成否に大きな影響を与えず)議席配分が議場での投票を介して政策決定へと変換される。要するに全体として多数決による「集計」の過程として理解することが可能なのである。もしも「集計」だけが民主主義の命だとすれば民主主義の過程はいくらでも技術的にスピードアップが可能である。しかし「慎重な討議」を欠いた民主主義は健全な民主主義とは言えない。現代においてとりわけ熟議民主主義の発展、ゆっくり時間をかけた討議や後のクールダウンのための時間貯めが必要とされるだろう。その背景には現代のグローバルな環境問題の深刻化と、持続可能な社会への希求が存在している。それだけではない。かつて人々の生活を広く規制し調整していた伝統や習慣、権威の効力が著しく低下した時代、別の言い方をすれば広く「自明性」が解体した時代も関係している。その分だけ選択の余地は拡大している。選択の余地が拡大したことは喜ばしいことだが、問題はこうした選択が納得のいくものとなるには一定の考える時間が必要だという事である。「自明性が解体した」現代社会は「そもそもコミュニケーションを成立させることが困難な他者との共存」を余儀なくされる社会でもある。そのなかで「社会内」の外見からは判断できない存在と共通の言語によって何事かを認識し思考し、熟議民主主義を媒介として通じ合える可能性がある。さらにトランスサイエンス時代を迎え、「科学技術の発展速度が速すぎて影響を考慮する時間の余裕がなくなっている」のだとすれば、この問題も一定の考える時間が必要であろう。本来民主主義の根幹にあるには「大事なことは自分で決めたい」という私たちの「自己統治」の願いであり「自分が参加しない意思決定によって影響を受けるのは納得できない」という自立の欲求である。わたしたちの意見は熟慮を介してまた他者との真摯な討議を通じて初めて確固たるものに成長する。そのうえで行政は国民参加の内容や質の向上に向けた仕掛けつくりをし、また熟議のなかで意思形成のどの段階で正当性を調達しどのような成果を期待するのかを明確にし整理していくことで熟議民主主義の発展につながると考える。

参考文献
「実践の政治学」 法律文化社 畑山敏夫 平井一臣

「市民の政治学」 岩波新書 篠原一