2017年1月17日火曜日

政治学入門 A6105 A判定

第二設題:「集計民主主義」と「熟議民主主義」について論じなさい。

はじめに
現在日本では「集計民主主義」(agreegate democracy)」が主流となっている。その中で、民主主義を謳う国家での物事の決め方が「多数による横暴」となり、あるいは新興諸国での「民主主義の赤字」が論じられたことを背景に、「熟議民主主義」が注目を集めるようになった。以下より設題について論じる。

1.集計民主主義
アメリカのかつての大統領であるリンカーンは「人民の、人民による、人民のための政治」を宣言し、民主主義の根本を築いた。民主主義は、国民の中から選挙によって選ばれた人が、国民のためを思って政治を行う形態で非常に理にかなっていてもっとも国が安定するものと思われた。しかし、選挙での得票や議会での議席数といった「数」による政治決定に疑問も少なくない。例えば昨今頻繁に「世論調査」なるものが行われ、大手マスメディアは週末ごとに「内閣支持率」なるものを調査している。これはしばしば、重要政策の行方や、内閣の存亡までをも左右されるようになった。こうした世論調査の手法に関する問題はさておき、仮に厳密な調査方法を用いて行ったとしても、それを国民の「真の意思」とし、それに基づいて政治の重要決定を行うことに対して、常に疑問がつきまとっている。例えば内閣支持率にしても、発足当初は高い支持率を誇った内閣が、一年足らずでほとんど支持されなくなり退陣を余儀なくされた例を、私たちはこれまで何度も見てきた。このように移ろいやすい「民意」を「数」に置き換えて、重要な政策や内閣の存続の判断基準にしてもよいのだろうか。同じことが議会制民主主義、政党政治に対しても問いかけられている。国会で過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数に届かなくても、他の政党と連立を組んで多数を占めることで可能になる。これまで、「数」にたのんだ「大連立」や「政権再編」の試みが、有権者や国民の手の届かない「政局」というところで行われ、しかも失敗してきた例を、私たちは何度も見てきた。こうした政党政治の在り方に対して、そこはかとない疑問を多くの国民が抱き始めているのではないだろうか。こうした現在の民主主義を集計民主主義と呼び疑問を呈する論者もいる。そして選挙において政党のリーダーによるいわば「人気取り」であり、選挙が人気投票になっていることも好ましくないだろう。こうした「集計民主主義」とも呼ばれる「数による政治」への処方箋として、討論や討議が必要とされる「討議(熟議)民主主義」の考え方が位置づけられるとはいえないだろうか。たとえば国民投票や住民投票もそれ自体が問題なのではなく、安直にそれに頼ることが問題だ。したがってそうした直接民主主義の問題の処方箋は投票が決する以前にいかに十分な議論がなされるかというところにあるだろう。なぜなら事前の議論と討論のなかで、自らと異なる主張や意見に接することが重要であるし、またそのなかで自分や他人の主張や意見も変わる可能性があるからである。議会政治でも同じだろう。単に「数による決定」ではなく、それに至る議論が十分に行われたかどうかが重要なのだ。したがってその議論の過程で時に政党の枠を越えて賛否が変わることも否定されるべきではないだろう。政党は市民社会に対して、政党は市民社会に対して
大きく道を譲ることで、行き詰りつつある現在の政党政治と民主主義に新しい道を開くことにはならないだろうか。そしてそれはもちろん、討議民主主義とも反する方向性ではない。その意味で政党そのものの存在意義を大きくみなおすことが必要だ。

2.熟議民主主義
現代の民主主義を実質化したいと考えるならば、決定(採決)の前には十分な議論が行われることが理想である。さらにテーマによっては議論の前に十分な予習(調査、研究、熟考)が必要になってくる。それだけ長い時間がかかるのだ。「お任せ民主主義」を脱却し、議員(代表)だけではなく多くの市民が政治に参加することが望ましいとするならばなおさらだ。人が集まって話し合うためには時間がかかる。よって十分な余暇がなければ、民主主義、とりわけ参加型の民主主義は成立しない。現代の1で述べたような問題について近年政治学では「熟議民主主義論(deliberative democracy)」が盛んになっている。「熟議」とは「熟慮」+「討議」の意味である。熟議民主主義論はいかにして民主主義の形骸化を避けれるのであろうか。それは形式でお手軽な「集計に基づいた民主主義」と短縮的で硬直的な「利益に基づいた民主主義」を批判することにより始まるだろう。そもそも熟議という言葉はドイツの社会学者ハーバーマスの「熟議の民主主義」が原点だ。彼は戦前のワイマール共和国を例にとりながらワイマール憲法下の最も民主的な手続きの中からナチスの台頭を許したことを反省して熟議が必要であると主張した。大衆民主主義における議会での政治的討議はそれだけでは宣伝や消費の対象とされてしまい選挙も見世物になってしまうこと、本来議会は大切なものを決める場だがもう議会だけでは大事なことを決められない状況になっており、だからこそ民主主義を複線化して議会制民主主義を補完する必要性を指摘したのである。現代での議会制民主主義では一般に「投票」中心の性格を有している。選挙はわたしたちの私的な選考(利益)を投票によって表明しその集計結果が複数の政党間の議席配分へと変換され、与野党関係がきまる。議会の機能はハーバーマスの批判のとおりその「審議」機能よりも「表決」機能に重心がおかれ(審議の過程は法案の成否に大きな影響を与えず)議席配分が議場での投票を介して政策決定へと変換される。要するに全体として多数決による「集計」の過程として理解することが可能なのである。もしも「集計」だけが民主主義の命だとすれば民主主義の過程はいくらでも技術的にスピードアップが可能である。しかし「慎重な討議」を欠いた民主主義は健全な民主主義とは言えない。現代においてとりわけ熟議民主主義の発展、ゆっくり時間をかけた討議や後のクールダウンのための時間貯めが必要とされるだろう。その背景には現代のグローバルな環境問題の深刻化と、持続可能な社会への希求が存在している。それだけではない。かつて人々の生活を広く規制し調整していた伝統や習慣、権威の効力が著しく低下した時代、別の言い方をすれば広く「自明性」が解体した時代も関係している。その分だけ選択の余地は拡大している。選択の余地が拡大したことは喜ばしいことだが、問題はこうした選択が納得のいくものとなるには一定の考える時間が必要だという事である。「自明性が解体した」現代社会は「そもそもコミュニケーションを成立させることが困難な他者との共存」を余儀なくされる社会でもある。そのなかで「社会内」の外見からは判断できない存在と共通の言語によって何事かを認識し思考し、熟議民主主義を媒介として通じ合える可能性がある。さらにトランスサイエンス時代を迎え、「科学技術の発展速度が速すぎて影響を考慮する時間の余裕がなくなっている」のだとすれば、この問題も一定の考える時間が必要であろう。本来民主主義の根幹にあるには「大事なことは自分で決めたい」という私たちの「自己統治」の願いであり「自分が参加しない意思決定によって影響を受けるのは納得できない」という自立の欲求である。わたしたちの意見は熟慮を介してまた他者との真摯な討議を通じて初めて確固たるものに成長する。そのうえで行政は国民参加の内容や質の向上に向けた仕掛けつくりをし、また熟議のなかで意思形成のどの段階で正当性を調達しどのような成果を期待するのかを明確にし整理していくことで熟議民主主義の発展につながると考える。

参考文献
「実践の政治学」 法律文化社 畑山敏夫 平井一臣

「市民の政治学」 岩波新書 篠原一

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