2017年1月17日火曜日

文学入門 A6102 A判定

第二設題 近現代の作品の中から二つの章を選びその各々について次の問いに答えよ。
作品名 『震災』 永井荷風
全文
今の世のわかき人々 われにな問ひそ今の世と また来る時代の芸術を。   われにな問ひそ今の世とまた来る時代の芸術を。われは明治の児ならずや。 その文化歴史となりて葬られしとき わが青春の夢もまた消えにけり。 団菊はしをれて桜癡は散りにき。 一葉落ちて紅葉は枯れ 緑雨の声も亦耐えたりき。 円朝も去れり紫朝も去れり。 わが感激の泉とくに枯れたり。 われは明治の児なりけり。 或年大地俄にゆらめき火は都を燬きぬ。 柳村先生既になく 鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。 江戸文化の名残烟となりぬ。 明治の文化をまた灰とはなりぬ。今の世の若き人々 我にな語りそ今の世と また来む時代の芸術を。 くもりし眼鏡ふくとても われ今何をか見得べき。 われは明治の児ならずや。去りし明治の世の児ならずや。

鑑賞文 この詩にはたくさんの芸術家が登場する。 團菊→歌舞伎の九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎 桜癡→福地桜癡 一葉→樋口一葉 紅葉→尾崎紅葉 緑雨→斉藤緑雨 團朝→落語の三遊亭円朝 紫蝶→新内節の柳家紫蝶 柳村→上田敏 鴎外→森鴎外 
永井荷風が親交のあったこれらの芸術家を連ね、関東大震災によって何もかも奪われたという切実な思いを書いている。後半部分を現代語で解釈してみると「曇った眼鏡を拭いても綺麗にしても、私には今何を見ることができようか?時代が変わった今の世の価値はわたしの目には何も見えない。私には明治が育んでくれた明治の人なのだ。明治に在った価値が、震災で消えてしまった今の世には、私には見えない、理解ができない。私はすべて消え去った古い、明治の人なのだ。」と訳せるだろう。荷風が関東大震災を江戸期から脈々と受け継がれて明治期に大輪の花を咲かせた歌舞伎や落語や戯作などの庶民文化や、荷風自身もその一翼を担った新時代の文学・芸術などの「喪失」として捉えている視点が鮮烈である。これほどまでの喪失感に、荷風が育まれ、魅惑されてやまなかった明治の文化への愛を感じることができる。荷風の「明治の児」にこだわるのは、後世からすれば時代が変わると断絶・変化に目がいって連続性はつい見過ごしがちになるが芸術や文化には流れがあり忘れてはいけないという気持ちがあるのではないだろうか。また、「われは明治の児なりけり」というひょうげんであったものが終盤では「われは明治の児ならずや」と繰り返されている。初めは断言した意味合いであったが、後では打消しの「ず」と係助詞「や」がついたものであるから「われは明治の児だろうか(いや明治の児だろう)」というように作者自身が自身に問いかけ、また再確認を繰り返し行っているような印象を受けた。日本人の国民性は謙虚で勤勉であるが時におおきなものの流れに流されていくような性格があるとよく聞く。荷風は時代が流れ、震災が起こり文化が消え行ってしまうさなかでも自分自身に自分は明治の時代の人間なんだと言い聞かせ、ある意味頑固にストイックに自分を貫き通すような人物ではないだろうか。また、私たちも時に荷風の生きざまを見習わなければならない。

作品名 「サーカス」 中原中也
全文 幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこにひとつのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて汚れ木綿の屋根のもとゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が安いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻と ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
野外は真っ暗 暗の暗 夜は劫々と更けまする 落下傘奴のノスタルジアと ういあーん ゆよーん ゆやゆよん
鑑賞 全体的に非日常のかそかなる光景を謳いあげることで、暗い時代に生まれた自分たちを曝け出そうとしている詩ではないかと考えた。幾時代とは現実の人類の歴史であるが詩人はその現実から離れ飛翔する。そうすることで悲惨な戦争もまるでセピア色に変色した過去の思い出写真のようにみえる。つまり「茶色い戦争」とは目に色鮮やかに思い浮かぶ辛い戦争も今は茶色の暖かく見守れる古ぼけ色あせた写真に変われるほど人々の中では戦争はもはや歴史に変わったのではないかと感じた。二節ではいくらでも辛い冬のような時代がありさらに突風が吹いている中、今は現実から飛翔しサーカスという非日常に浸ろうとしているのが分かる。また「幾時代かあがありまして」という句を繰り返すことで物語的な雰囲気が醸し出され、その物語は遠い遠い過去を起点として始まるという事を感じさている。その遠い過去にあったことは「茶色い戦争」でありまた冬に吹く「突風」である。その二つの隠喩には作者の中に残っている苦難や失意であろうか。「サーカス」というワードが度々登場するが「非日常」を表すたとえであることは間違いないだろう。サーカスというと今はすっかり見なくなったが昔は街々を移動して広場に大きなテントを張って人々をたのしませてくれたものだ。サーカスが来れば、必ずみんなが喜び心浮き浮きとその開演を待つだろう。一時現実の辛さや苦しみを忘れさせてくれる象徴ともいえる。特にその演目の中で皆が楽しみに待ちわびスリルに興奮した空中ブランコ。作者はその最大の演目を「見えるともない」と表している。ここにおいて作者がさらにサーカスの非日常でさえも離れ飛翔を再開したことを示している。そうするとあの手に握るスリル満点のショーが途端にその本質的な安っぽさを露呈する。その擬音が激しくダイナミックで素晴らしいはずのブランコであるはずなのに、「ゆあーん」等で表されているところではないか。またこの擬音にはどこかさみしさのほかに不気味さや不安な心情を感じた。また薄汚れたテントの安っぽい木綿が気にかかる。真剣に演技する人間を照らし、輝かせるための照明の強い光はかえって安っぽさを見せつけさらに華麗に笑顔で軽々とショーを見せている演者が実は必死になっている姿を晒してしまっているのだ。さらにそれを夢中でみている観客は人間の知性のようなものを失った状態であり、緊張して唾をのみこむ様は堅苦しいガチガチという音が聞こえそうな無様さだ。一方テントの中は熱気あふれる夢のような空間であっても、外の現実は暗く、また観客たちが夢中で過ごすほどにますます暗くなっていく。墜ちいく人間、暗くなる時代。その中で一時の過去の美しい思い出に浸る人々の哀れさや悲しみを感じる。また一つの可能性ではあるがブランコに乗っているのは作者という事は考えられないだろうか。場末のサーカスでそのブランコは「見えるともないブランコ」であるということは実際に存在しないのかもしれない。「ゆあーん」等擬音も作者の心情を表しており、作者の心の中は不安定な状況とも考えられる。そしてこの擬音からはゆったりと自分の芸を披露しそれに魅了される観客。その観客を「観客様」と作者はまずもちあげそのあとで「鰯」とたとえる。また歓声を牡蠣殻が鳴るようだと嘲笑しているようにも感じる。
最後の一連は特にそれまでの連とは様子が違う。つまり、作者の視点がサーカスの外に動いているという事があげられる。「夜はますます更けまする」とあるがまだこれ以上に「真っ暗」になっていくことを暗示する。そんな中サーカス小屋は「楽下傘奴」とたとえられ空から降ってくるよう描かれますます現実味を感じられない。あるのは「ノスタルヂア」のような作者の気持ちのみだ。作者は不安定な心境の中、ただ故郷を思い浮かべているのであろう。消えてゆくものをみつめながら「サーカス小屋」を「ノスタルヂア」=「故郷を懐かしむ思い」ととらえ、決して戻らないあの遠い時代に感じたやさしくあたたかな心の中のふるさとと向き合っているのかもしれない。


参考文献 声に出したい日本語 斉藤孝 草思社

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