2017年1月17日火曜日

哲学入門A6101 A判定

第二設題 全6章のうち、一つの章を選んで、まずその内容を正確に要約せよ(1,600字ほど)。その上で、自分が疑問に思うこと、批判すべきだと思う点を詳述せよ。

      「瞬間と想像」 加國尚志 要約
「連続」の問題を「私」と「時間」の観点から考察する。デカルトの有名な「われ思う故にわれ在り」という言葉通り、彼は知識の確実な根拠を求めるために疑わしいものはすべて偽りと」してしりぞけるという基準を採用し、外科医に存在する一切のものに懐疑を差し向ける「誇張的懐疑」「方法的懐疑」を行う。
デカルトは「私」は何事かを考えているとき、その何事かは偽であったり、存在しなかったりすることもありうるが、それを考えている当の私だけは存在しないものではありえないものであると考えた。ここで、「私」が「考えるもの」と定義されることによって「私」は存在するという事に時間性としての規定が与えられることに注目する。問題はデカルトは「私」の「存在」に「考える間」という「持続」を与えたかどうかであるが、デカルトにとって時間とは全く依存関係を持たず、決して同時に存在しないものである(「哲学の原理」第一部21 R.デカルト/井上庄七・水野和久訳「哲学の原理」中央公論社(世界の名著)22デカルト)とされるようだ。しかし一方でデカルトは「私」の外部に、私の存在が確実であることの原因となり私だけでは不可能な連続性を可能にする「神」の存在を認めている。神は「私」を瞬間瞬間に想像をしつつ保存をしてくれるものであるから、かつてあったことを思い出そうとし、初めて持続が得られ、「私」は適用していくと考えたのだ。こうして「私は考える」「私はある」の「今」は時間の本性から考える限り前後まったく存在しない各瞬間としての「今」を指すかのように見えるが、私の存在の原因である、無限にして完全な神の本性から考える限りそれらの各瞬間が保存=創造された持続である、と結論付けた。
 ここでライプニッツの主張をみる。ライプニッツはわたしたちの心がデカルトの機械論的・力学的な原理とは異なった独自の原理を持っていることを主張している。デカルトが瞬間瞬間が保存される垣存性を重視し、その説明のために「神」をもちだしたとするのならライプニッツは私達の表象の移行そのものに変化と連続の原理を求め、無限にただの保存の原因としてではなく変化の連続に内的なものをとらえていたということができるだろう。つまり、連続している、ということは保存されていると同時に変化もまた生み出すのである。
 ライプニッツはさらに、形而上学的な大原理を問う。それは「なにゆえ無ではなく、むしろ何ものかがあるのか」という問いである。このなにものかがあるということの「根拠」あるいは「なぜ物はこのように存在し、別のように存在しないのか」ということの根拠をライプニッツは「十分な根拠」と呼んでいる。ここでライプニッツはこうした「十分な根拠」は物質の因果系列の外部にあるとしてそれを「神」と呼んでいる。神ということで、ここでは究極の原因と置き換えてもよい。
 最後に、ライプニッツが「私」の人格保存について言っている「形而上敘説」をみると彼は「私」が道徳的に保存され同じ人格でありつづけると主張する。記憶あるいは自己認識という形で「私」の人格が保存されるのでなくては私達はなにも期待することはできないことになる。なにも期待できないのであればはたして道徳的な努力は生まれるであろうか。ライプニッツの形而上学的はここで道徳の問題と結びつくのである。
 こうした形而上学の枠組みそのものを変革したのがカントである。カントが物自体と現象を区別し人間の理性的な認識を、直観の形式としての時間と空間を通じて与えられる経験の範囲内に限定したことは、デカルトやライプニッツが神にことよせながら実態の垣存を語り、因果性や相互作用について語ったことがらを、人間理性の範囲内で語らねばならないという事を意味する。そこでは時間は人間の内官の「形式」としての時間である。神に頼らないで実体の垣存、因果性、相互作用を内的直観の形式から語ろうとしたのがカントである。そこでは、時間は、創造の説からも、予定調和の説からも離れて、認識としての経験の可能性の条件と考えられるのである。この意味でカントの哲学はデカルトの哲学が哲学史につけた折り目をさらにもう一度折り返したと言える。

考察
上記の要約を終えた時点で疑問が頭に浮かんだ。デカルトについて「「われ思う故にわれ在り」という言葉通り、彼は知識の確実な根拠を求めるために疑わしいものはすべて偽りと」してしりぞけるという基準を採用し、外科医に存在する一切のものに懐疑を差し向ける「誇張的懐疑」「方法的懐疑」を行う。」とのべた。デカルトがひとつひとつに疑いの目をもちそれを信じず探究し続けこの考え方は今の技術や医学におおいに役だっているという。しかし、なぜ「我」を疑わなかったのであろうか。真っ先に今考えている自分自身のことを疑問に思わないだろうか。それがただの肉体か精神であるかはわからない。また我が何かを「思う」にしても何かしらの五感からの刺激や感情あってこそである。それを受け取る側である我というものを据え置きしすぎなような気がした。高度な脳・神経の認知システムを形成した人間、「記憶と言語と大脳新皮質からの派生した精神」という心の高次機能に限定された存在であるからこそつじつまがあう存在論ではあるだろう。世の中で絶対に存在することがはっきりしているのは今のことを考えている自分自身だと考えたデカルトは少し説明不十分だったかもしれない。
 そしてもう一つの疑問がある。「我思う故に我あり」という言葉で、私自身の怠けた考えであるが、考えないと自己は確立しないのだろうかという疑問である。つまり、私自身考え事をしていない時間のほうが圧倒的におおい。より豊かな人生を得るために考察、勉強は必要なのであることはわかるが目の前のことを無心でただひたすらとこなすときもある。仏教の教えでも邪念をすて心に浮かんだものをただ浮かぶに任せ明瞭な意識のまま一切の努力を止め時のくるまで一切座るという修業があるそうだが、その修業時に彼らは存在していないとは思わない。デカルトの疑い深さに少々驚くこともあるが、彼の言葉にはある意味ストイックな性格が表れているのではないだろうか。そうでなければすべては夢なのではと疑わないし、考えている間だけ自分が存在すると主張してしまえば何も考えていない普通の状態のデカルト自身を批判していることにはならないだろうか。
 上述でデカルトの言葉は少々言葉不足で、ストイックな性格のあらわれではないかと述べたが、違う観点からみると、この言葉がただの風変わりな発想でしかなかったらこれほど有名で人気な言葉にはならなかっただろう。それまで哲学が究極の目的にしていたのは心理を見つけることであった。しかし真理は確実なものでなければ意味がない。確実なものとは真理に勝るなにかであり、ぎもんという試練にパスした真理だといっていい。けれどあらゆる疑問を解消することは決して容易ではない。周囲のあらゆるものをみていてもそれが幻覚ではないと実際誰も証明はできない。人生そのものも夢かもしれない。意識と実在、あるいは主観や客観の問題はいまだ明確な解決にはいたっていない。しかし主観の存在を確実とするならば、確実であればあるほど客観的に存在していると感じられる物質的なものがどうして我々に認識できるのかということの確実性は失われていく。そんなことを考えたら自分という存在だけはまず認め、考えを深めない限り議論は進まない。すべてのことを疑った末に残ったこれだけが確実な真理でありこれを出発点としてデカルトは哲学を構築しなおしたいわば一般的な理解ともいえるのかもしれない。

参考文献 連続をめぐる哲学 田山令史・斉藤慶典 編著 佛教大学

 

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