2017年1月17日火曜日

文学入門 A6102 A判定

第一設題 古文(漢詩・経典などを含む)作品の中から二つの「章」
を選びその各々について次の問いに答えよ。
1 作品名を記す 「おくのほそ道」

2 全文
『おくのほそ道』 松尾芭蕉
 月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。(1)船の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老いをむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。(2)古人も多く旅に死せるあり。(3)予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂白の思ひやまず、(4)・・・
行く春や鳥啼魚の目は涙 (5)
夏草や兵どもが夢の跡 (6)
五月雨の降りのこしてや光堂 (7)
蚤虱馬の尿する枕もと (8)
閑さや岩にしみ入蝉の声 (9)
暑き日を生みにいれたり最上川 (10
荒海や佐渡によこたふ天河 (11
蛤のふたみにわかれ行秋ぞ (12

3 鑑賞
(1)百代→永遠 過客→旅人 。 (2)馬の口とらへて老いをむかふる物→馬を使って貨物を運搬する人のこと(馬方) (3)古人→風雅の道に生涯をささげた昔の人々。李白・杜甫・西行・宗祇などのこと。 (4)漂白→流れ漂う事・さすらい歩くこと (5)鳥啼魚→鳥も魚も (6)兵ども→義経ら武士 (7)五月雨→梅雨 光堂→平泉中尊寺の金色堂 (8)蚤虱馬→ノミやシラに食われている 尿→当時獣類の小便を「ばり」といい、それを「尿」と漢字表記して地名の尿前(しとまへ)にかけた (11)佐渡→流人の島と知られる佐渡島 (12)蛤のふたみ→蛤のふたと身 行秋→秋が過ぎ去ろうとしている季節                                    「おくの細道」は元禄二年に江戸を立ち、東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文である。(1)の文より月日は永遠と旅する旅人のようであり過ぎ去っては新しくやってくる年もまた旅人のようだと言っている。芭蕉にとって人生は旅だと、とらえていたに違いないだろう。また、(2)から船頭や馬子の旅の中で生きる生活にあこがれを感じているのではないかと考えた。そして芭蕉が尊敬していたとされる先人の宗祇や杜甫などが旅の途中で死んだように、あこがれを感じていたのならなおさら芭蕉も又旅に生き旅に死ぬことを望んでいたかもしれない。                                                               (5)は流浪の旅に出ることを願っていた芭蕉が、船を千住で降り、矢立初めに詠んだ句である。旅に出ることでたくさんの人に見送られ、鳥は啼き魚さえも涙に濡れるという意味が込められているが、初めて見たとき、この句からファンタジーのような印象を受けた。なぜなら「行く春」という現実的な想像が膨らむ春の光景が頭に浮かび、鳥啼という部分からは季節柄ウグイスの鳴き声が聞こえるが、「魚の目は涙」という部分で一気に現実的なイメージから離れ容易に断言できない想像上の泣いている魚が頭に飛び込んでくる。このような心の中でしか作ることのできない想像やイメージに芭蕉のユーモアな部分が見れる。          (6)の句は奥州藤原氏の栄華の儚さを思った句とされ、夏草という季語に託された緑色に輝く初夏の緑が脳裏に浮かぶ。兵とは源義経のことだが、当時新設されたばかりの義経堂がたっていたがきっと芭蕉には義経堂など眼中になかったに違いない。(7)では対照的に光堂は時間の浸食に耐えまばゆい姿だと表現している。そして単に鞘堂のなかで光り輝く光堂の美しさに感動したのではなく光堂を後世まで残そうとするこれまでの多くの人々への感謝の心が感動となったと考え、きらびやかな栄華より心の美しさを美とする人柄を持つ人物だろうと推測する。      またそんなおだやかで心優しい芭蕉の性格は(8)の句にも表れており、長旅を共にし一つの家で寝食をする馬への思い入れも漂よわせている。芭蕉の句には(8)のような現実的で親しみやすい句もあれば精神の世界に入り込んでいくような句もあり、それが(9)の句だ。というのも、(9)の句では後ろで大音量で蝉が鳴り響いているにもかかわらず「閑けさや」と表している。賑やかな蝉の声もなにもかもすべて岩にしみ入りあるのはただ静寂のみであると読み取れるだろう。「しみ入る」という流動感あふれる言葉にはさらに芭蕉自身も岩にしみ入るような精神の極地にたっているような印象も受けた。             (10)の句は大変スケールが大きい。 大河が海に流れ込む様には涼感を感じるし、日没の日本海を想像するとダイナミックだ。芭蕉は旅を続けていてこのような自然あふれる光景を幾度も目にしただろう。特にこの句は読むだけで自分がその場にいて大河の流れや夕日の真っ赤な情景が頭に浮かび日常の暑さとともに辛いことや悩みなども最上川に溶けだし海に流れるような気持になる。 (11)の句も(10)とともに実景ではなく心象情景である。(11)の句は類推するに夜半に佐渡を望んで詠んだわけではなく寝所で詠んだとされるが(参考文献 銀河の序)、宵にみた月明かりに照らされた佐渡・荒海・天の河を布団の中で思い出し、旅愁と古人に思いをはせながら詠んだ心象風景なのかもしれない。天の河を佐渡への架け橋ととらえるか、荒海と同じく佐渡と芭蕉を隔てるものと考えるのかたくさんの推測ができ、それにょってまた芭蕉の心情も変わりおもしろい。(12)の句は(5)の句と対になり旅の終わりと別れを表す。どれも300年以上前に詠まれた句であるのにどれもその場の情景がありありと思い浮かび、またその場の音まで頭に流れてくるように感じた。松尾芭蕉の今でも語り継がれる句の魅力にはすばらしい感性があった。                                   作品名 「枕草子」                        全文 春はあけぼの。やうやう白くなり行く、山ぎはすこしあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。 夏はよる。月のころはさらなり。やむもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。また、ただひとつふたつなど、ほのこにうちひかりて行くもをかし。秋は夕暮。夕日のさして山のはいとちかうなりたるに、からすのねどころへ行くとて、みつよつ、ふたつみつなどとびいそぐさへあわれなり。まいて雁などのつらねたるが、いとちひさくみゆるはいとをかし。日入りはてて、風の音むしのねなど、はたいふべきにあらず。冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。                 鑑賞 あけぼの→よるがほのぼのとあけようとすること やうやう→だんだん・しだいに 山ぎは→山に接する空の部分 さらなり→言うまでもない をかし→趣深い 山のは→空に接する部分 あはれなり→しみじみとした趣がある つとめて→早朝 つきづきし→似つかわしい・ぴったりしている 火桶→丸型の火鉢 わろし→よくない         枕草子を読むと、清少納言の自分の感覚をしっかりと信頼し言葉に表す表現に、女性の中の潔さを感じる。春夏秋冬の中にある自然のそこはかとない一瞬を切り取ったり、そこにある空気を表現する。冒頭「むらさき立ちたる雲の」では夕暮れの真っ赤な空と違って、夜空の青と朝の陽ざしが混ざり合った情景が頭に浮かぶ。また夏の部分で、ほたるを「ほのかにうち光て行くもをかし。」とひょうげんするところでは電気の明かりがない平安時代の夜はどんなに暗かったことだろうかと想像もつかないが、そんな夏の夜月明かりに照らされた光景はさぞや幻想的であったに違いない。さらに月明かりがないくらい夜ゆえに強調される蛍の光は平安の人々にとって美しく、今でいう「癒し」に思えたのだろう。秋の部分では、夏にはなかった音が聞こえてくる。風が葉を揺らす音や虫の音など。まさに五感すべてをつかって読む文献といえるだろう。千年も前に書かれたものであるのに、現代の女の子同士の会話のような軽快な筆致で進み、そして今に通じる普遍性がある。日々私たちは便利なものに囲まれ毎日忙しく過ごしているが、一日一日四季のうつろいを感じ心を豊かにしていくよう、清少納言の過ごし方を学ばなければならない。                              参考文献 声に出して読みたい日本語 斉藤孝 草思社             

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