2017年7月1日土曜日

スポーツ論入門 A判定

第一設題 自己の運動(スポーツ)体験を通して獲得したもの、これから、獲得しようとしているものを具体的に記述しなさい。

はじめに 
私たちは「何かの役に立つ」という原理が支配している世界に生きている。このような世界の中でスポーツは多くのことに役立つ。「健康のため」「教育のため」「金儲けのため」に役に立つのであってそれゆえに価値があるものとされてきた。しかしながらスポーツは、結果として何かの役に立つから価値があるのだろうか。たとえばバットの芯でボールをとらえた瞬間の感覚、走っている最中の人間・身体としての爽快感・充実感、そこに人間として重要なものを見出すことはできないだろうか。スポーツの意義を、結果(業績・健康)の生産に見出すことだけでなく、「スポーツ」すること自体に「価値」があると考えることによって、その新たな意味を見出すことができるのでないかと考える。下より、私自身のスポーツ体験を振り返り、それにより培われたものを述べる。

自己のスポーツ体験
中学高校時代、六年間の間バレーボール部に所属していた。初めたきっかけは、クラスで仲のいい友達が入部していたことから軽い気持ちで入部を決めた。しかし、それ以前に運動経験もなくルールさえも最初は理解せずはじめたものであったから、練習についていくのが苦痛で時には涙を流して練習していたことを覚えている。段々と学年が上がるにつれ、練習に慣れ、後輩に時々指導する側となったり試合で活躍出るほどになった。あんなにつらくいきたくなかった部活であったが、高校に進学し続けることを決意した理由は、中学時代に苦労して身に着けた技術をもう少し磨きたいと考えたからだ。今から思うとあれ以上に苦しい日々はもうこないと考えていたし、なにより自分の実力に自信があった。しかし私の考えは甘く、ほかの中学から集まったほかの部員は自分が見てきたバレーボールの世界とは全く違い実力の差があり愕然としたことを覚えている。高校でバレーボ-ルを続けようと思ったことを後悔したほどである。またあの苦しい時期を一からやり直すのか・・・と落ち込んだ。しかし、中学時代に部活に休まず出席する癖がついていたおかげで実力はさらにあがった。高校最後の試合で、引退した日に何とも言えない達成感を味わったことを今でも記憶している。今学生時代を振り返ると当時は毎日つらい、身体もしんどいと考えていたが、不思議と記憶が前向きで自分が最も輝いていたような気になる。

自己のスポーツ体験を通して獲得したもの
1.努力・克己の精神
六年間の部活動を通じて獲得し、今でも私を築く土台となっているものは努力・克己の精神だろう。厳しい練習に耐えるというのももちろんあるが、それ以前に毎日休まず部活に行くというあたりまえのことを続けたことが私にとっては当時の自分をほめてやりたい点である。これから始まる練習を想像すると腰は重いし、休みたいという気持ちを抑えまず出席するということは自分自身との戦いであった。諦めることの解放感をもうすでに知っていた自分にはここをクリアしたことが大きな自信につながった。このことは、引退し大人になっても自分という人間を形成するうえで大変役に立ち胸をはって自分の長所といえるだろう。

2.他者との調和を優先する精神
バレーボールはなんといってもチームメイトとの協力、チームプレイが重要である。自分だけが目立った活躍をしていても当然チーム自体が良いチームとは言えない。他者が今何を考えているか、チーム全体の雰囲気まで考えなければいけない。これは今社会人となり会社で働くうえで、特にスポーツをやっていてよかったと思える点である。同じ会社の人間への感謝や、思いやりもこの精神を持ち合わせないと気付けないことも多々ある。また調和とは目上の人間を敬うことも重要だ。それも上下関係の厳しい部活であったから自然に身についた。他人同士がうまくいってない雰囲気を感じた時も自分が仲介をしたり、雰囲気を一掃し全員を再びまとめ同じ目標に向かわせる努力をしたことも今社会人になってからも何度も役に立っている。

3.基礎体力
実際にスポーツをすることにより、反射神経がよくなりいろんな競技がそれなりにできるという点で、いろんなものに触れることができ、経験として人生において得をしていると考えている。また、走りこむことや基本の体力をつけるトレーニングをしていたことにより体が強くなった。学生時代から比べると多少体力は衰えたが、今でも長距離を走れることは当時のトレーニングがあったからだろう。

4.忍耐の精神
1でのべた努力の精神とすこし似ているところはあるが、ここで述べるのは感情的に動かず、一度冷静になり耐えるという意味だ。スポーツをしていて、立ち止まるポイントがいくつかあった。練習していてもおもうように上達しない、試合に勝てない、チームの和が乱れるなど。こういう時、すべてを諦めて投げ出したくなる。しかし、自分の目標を思い出し、そのために今自分は何をすべきなのか冷静に考えなければいけない。その忍耐こそ、結果につながった自信があり、スポーツ以外の場面で立ち止まったとしても過去の経験を思い出し、あの時うまくいったからここは一度耐えて考えてみよう。と我慢するというより前向きに待てるようになったともいえる。うまくいかないことのほうが圧倒的に多いと社会に出てから気付き、乗り越えるには忍耐だと実感した時は、いくつになっても忍耐というものは必要だと改めて実感した。

これから獲得したいもの
社会人として時間的な制約は増え、運動不足は気になるものの、忙しい日常の中で継続してスポーツを行うことがむずかしくなってきた。そこで仕事の後や休日を利用して活動することがポイントとなると考えた。最近では夜遅くまで営業するスポーツクラブも多く、プログラムも多彩であり、選択肢も増えている。そうした施設ではトレーナーが個別にプログラムを作成してくれたり、定期的に体力を測定・評価してくれるなどのサービスもあり、自分のスケジュールや体力にあわせて運動を行うことも可能になってきている。このようなサービスを積極的に利用し、これからもまずスポーツというものとの距離を開けすぎず、触れていきたいと考えている。日常生活において、スポーツがある生活はより自分自身を体力面でも精神面でも向上させてくれるに違いない。昔ほど、試合の結果やスコアにこだわらなくてもいいと思っている。大事なことは生涯どんなかたちでも自分のペースでスポーツと触れ合うことだ。社会人になってから、学生時代の友人と仕事場や職種、家庭環境などの変化によりどうしても疎遠になってしまった。そのことにより、仕事後や休日は外に出ることが面倒になり、何もしないままに休日が終わってしまったということがよくある。その後はきまって何もせず終わった休日を振り返り、後悔したりする。今後は是非、外に出ていろんなサービスを受けながらでも挑戦したことのないスポーツのジャンルに挑戦してみたり、新たにスポーツを通して人とのかかわりを築きあげたいと考えた。共通の趣味をもち、互いを向上させ、時には励ましあうような関係をつくれたらいい。

最後に
この学習を通じて、スポーツが技術以外に自分に与えてくれた「経験」を思い出し、その経験によって自分自身が動き、今でも学び続けていることに気付いた。つらく、身体だけがしんどいというようなイメージも少しあったが、これからは自分のペースでスポーツにふれあい、協議すること以外にも観戦したり、またそのスポーツの歴史や文化にも触れてみたいと考えた。スポーツが与えてくれた人間関係、自分の信念をこれからも忘れずに持ち続け、より自分という人間を向上させることに努めたい。

参考文献
健康・フィットネスと生涯スポーツ 改訂版

東海大学一般体育研究室 編

2017年2月11日土曜日

通信大学の学費って大体いくらかかるの??とお思いの方へ




こんにちは!^ - ^
レポート提出期限が今月も終わりましたね☆

今日は、通信大学で、大学卒業資格を取りたい方や、教員免許を取得を考えていらっしゃる方の為、ざっくりいくら必要なのか
書いていきます!!!!!!

佛教大学の通信教育パターンで書きますが、科目や教員免許以外の資格によっても金額は変動しますので、ざっくりこのくらいだと思ってもらえれば幸いです。

大学側のホームページには詳しい算出もありますので、気になる方はそちらを見て見てくださいね☆



ではまず、

①大学卒業資格が欲しい人
②大学卒業と同時に教員免許が欲しい人
③大学卒業資格を持っていて、教員免許だけ欲しい人

の3パターン算出してみます。


①、②の方は
大事なポイントは最低、四年間の通学が必要です!!!!!

①の方に関しては世年間で70万〜80万前後で卒業資格が取得できます。
ざっくり内訳は
150000万/年間+スクーリング(実際に大学に行って授業を受ける授業料が別途かかる)+諸経費+教科書代

②の方は、①の方にプラスして
教員免許を取るための必要単位を取得するための経費(150000円ほど)
教育実習代(50000円程度)
かかりますので
四年間で80万〜100万




なかなか高いですが、他の私立大学(年間約100万ほど)と比べれば、お得なのでははないでしょうか??( ´・‿・`)



続いては、③番の方は2年の通学が必要です!!!!!!

③番の方の学費は初年度が役200000円と、①や②の方と比べて少し高いですが、卒業までにかかるお金は約500000円!




いかがでしたでしょうか??^ - ^
思ったより安い、思ったより高いなど感じ方は人それぞれかなと思いますが
大学卒業資格も教員免許もこれからの人生長く役立ってくれるものでしょう。




かっぱ



2017年2月10日金曜日

基礎教育科目オススメ履修科目【通信大学に興味がある方はまずここから☆】


今回は、学部本課生といわれる、いわゆる通信大学に四年間通い、大卒資格や同時に教員免許取得を考えていらっしゃる方に役立つ情報をお届けします!!!


これから、通信佛教大学に通うか検討中の方や大卒資格が欲しい方必見です!!!!!!!



まず、通信佛教大学に学部(本課)生として入学すると、必修科目がでてきます。

そこで、本来ならば
哲学入門
文学入門
社会学
社会福祉学
経済学入門
教育学
心理学

の中から2つの履修ですむところを、私はよくシラバスを読まずに間違えて片っ端からレポートを書いたり、テスト勉強したので、この度皆さんが初めにどの科目を勉強するか迷われるところだと思うので、

難易度(レポートの書きやすさ、テスト問題の簡単さなど)で分けてみました!!(・ω・)




注目科目をご紹介します!
哲学入門   

数ある哲学を2つ要約する設題です。私はこのブログで、プラトン哲学とデカルト哲学のレポートを載せています。    簡単に言えば、教科書が難しく、参考文献がないと理解しがたいものだと思います。  テスト問題6問も全て別の哲学についての要約なので教科書をほぼ全て読み、理解しないと解けません。    評価 ☆1


文学入門  

有名な文学を一設題、二設題あわせて4つを観賞するというレポートでした。鑑賞文に関してはそこまで難しくはないですが、この教科はテスト勉強がかなり大変です。『方丈記、伊豆の踊子、雪国、山の音、サーカス』を丸暗記する必要があります。   なかなか大変なので評価☆1


教育学入門  

教科書も読みやすく参考文献なしで十分なレポートが書けます。専門用語もなく、二設題とも教科書を読んで自身の教育論について書くので、自分らしいレポートが書きやすい科目です。  評価☆3

政治学入門

多少の専門用語はありましたが、関心が多い事柄なのかネットで詳しくわかりやすい解説もあり、とっつきやすい科目でした!!また、今の政治と絡めた自身の考えなどもいられるので、書きやすく、テスト問題もまだ簡単です!!オススメ!!  評価☆3






是非参考にしてみてくださいね!(^_^)


かっぱ

Twitter   @kappamaki0611



2017年1月30日月曜日

心理学入門 第二設題

第二設題 アタッチメント理論について解説しなさい

はじめに

愛着(atatachment)とはボウルビィという人物によって提唱された概念である。この概念は、人間にとってとても大切なものとされている。多くの研究がなされており、その形成過程や障害について明らかになっている。そして幼少期の愛着の経験がその後の成長に大きく影響を与えるとされている。

アタッチメント理論とは

アタッチメント理論とは子どもと母親にとの間に形成される情緒的な絆を意味する。たとえば、生後2~3か月ごろから、乳児は自分の求めに頻繁に応じてくれる母親に対して、他の人々とは異なる反応を示すようになる。見知らぬ人への微笑が減少し、母親に対してのみ特別によくほほえみかけるようになる。また、他の人では泣き止まなくても、母親があやすとすぐに泣き止むようになる。このような現象は、スキンシップによってもたらされる快感を得るためだけではなく、養育者を安全基地として周囲の世界を探索しようとする乳児の主体的な活動によると考えたのである。
 アタッチメント理論では、乳児期に特定の人との間で質の良いアタッチメントを形成することは、こどもの安定した情緒の発達を促すと考えられている。質の良いアタッチメントは、自分が求めればいつでも応じてもらええるという信頼感を与え、不安にあふれた未知の世界への探索活動を促進する。一方、母子間のアタッチメントが弱い場合や、母子間の強すぎるアタッチメントが子供の自立を阻害している場合には、子供の情緒は不安定になる。つまり、質の良いアタッチメントは、両者の間で適度な強さの安定した情愛が結ばれている場合に形成されると考えている。

愛着の形成の流れ
愛着は養育者との相互的なやりとりによって形成される。特に、このような養育者との相互的なやりとりを通して形成される、子どもの心の中の自分や他者に対するイメージは「内的作業モデル」としてとても重要なものとされる。子どもは誕生直後から、母子間で表情や動作、言葉にならない音声などを通して、相互作用が繰り返される。たえば、母親が乳児の気を引こうと話しかけると、乳児は微笑む。さらに、乳児が声をあげたり手を振って喜びを表すのをみて、母親は自分の頭を振ったり後ろにそらしたりして答える。お互いの働きかけと応答は常にうまくかみ合うとは限らないが、次第にずれが修正され、まるでダンスしているような一体感(相互同期性)が感じられるようになる。
 こうした相互作用がスムーズに展開していくためには、母親の応答性、乳児の内的状態や信号を敏感にとらえ、タイミングよく適切に対応することがカギとなる。たとえば、いつも乳児の注意を引こうと刺激を与えても、目をそらしたままぐずったりする。母親にとって、乳児が自分を三つ目、目をそらすリズムをつかむことが必要である。また、次第に乳児は自分の欲求を伝えようと意識的に泣くようになる。泣きが空腹によるのか、痛みによるかなどと、適切に解釈して対応することも求められる。
ただし、こうした応答性は母親の人格特性によって規定されたものとするのではなく、乳児や母親を取り巻く人々との関係の中で揺れ動くと考えるべきである。乳児の個性と母親の人格特性との適合がよいほど相互関係はスムーズに展開し、母親は育児に対する有能感を深め、乳児に対して肯定的な感情を抱くことになる。
また、夫婦関係や家族の母親への支援態勢、移住環境なども密接に関連している。母親が心理的に閉塞状態に陥ると、情緒の安定性を欠き、応答性が低下するだろう。さらに、母親の生活史や育児観によっても影響される。自分の母親との関係に満足しているか、妊娠を肯定的に受け止めているか、自分自身をどのように評価しているかなどが重要である。

近年のアタッチメント理論の考え方
近年、親による乳児・児童に対する虐待が増加し、「母性」が神話にすぎないことが指摘されてからは、子どもと養育者の情緒的な結びつきのメカニズムに対する議論は盛んにおこなわれている。しかし、子どもの発達と同様、母子関係の形成にも多様性が見られ、唯一の説は定まっていない。
ハーロウという人物は、アカゲザルの乳児を母親から引き離し、二種類の人口母親模型で育てる実験を行った。母親模型には子ザルに授乳できるように哺乳瓶がつけられていたが、一つは柔らかい布で覆われた布製模型、もう一つはむき出しのままの針金製模型であった。最初に「乳児は口唇を通じて母乳を吸うことに快感を覚え、その快感を与えてくれる母親に愛情を感じるようになるとする。」と唱えたフロウトという人物の主張通りならば、布製模型に授乳された子ザルは布製模型に、針金模型に授乳された子ザルは針金模型に愛情を感じ、長時間過ごそうとするはずである。しかし、実際には、どちらの母親模型から授乳された子ザルもほとんどの時間を布製模型と接触したのである。この結果から、ハーロウは授乳そのものによって愛情がはぐくまれるのではなく、授乳の際のスキンシップにともなう快感が重要であるという結論を導き出したのである。
しかし、この接触満足説は動物実験から導かれており、人間にも当てはまるかという疑問を残す。また、父親も母親も同様にアタッチメントの対象となっているという結果が報告されてからは「乳児はまず特定の一人の人物にアタッチメントを形成する」という特殊な二者関係を強調するボウルビィのアタッチメント理論は問題が多いと考えられている。
 しかしながら、乳児期に特定の人との良好な関係を維持することができなかったために、発達上一定の障害をもつに至った子どもの例は多く、早期の母性的養育の剥奪が、その後の人生に大きな影響を与える可能性は否定できない。
 繁多は健全なアタッチメントの形成には、特に母親が①子どもの活動に敏感に、適切に反応すること ②一定量以上の相互関係があること ③子どもとの相互関係を喜びをもって行うことが重要であると考えている。

結びに変えて
このレポートにおいては特に乳児期のアタッチメントについて詳しく解説したが、の安全基地となうる保護者からの自立までにはいくつかの段階があると考えた。誕生してからすぐには視力が低いため、誰かが見えないというところから始まり、母を認識する、そしてはいはいができるようになり、歩けるようになってからは受けるだけの愛着ではなく自らの意思表示をしコミュニケーションをとりあい、相互関係を築く。アタッチメントによって不安を解消し、探索活動を活性化し、子どもに安心感を与えたり、他者との信頼関係を結ぶことは大人になり社会に出てからも必要不可欠なことだ。つまり親と子のアタッチメントはすべての土台となるのではないだろうか。
ここで、親の在り方について考えてみる。上述のようにアタッチメントによって人格の基盤ができるものだとしたら、責任は重く、常に子供に寄り添う姿勢が必要だ。しかし、これには親自身の情緒が安定していることが不可欠だ。子どもがうまれた瞬間に親に自動的になるが、人間の器としてはすぐに広くはならないと感じた。特に女性は10か月お腹で一緒に過ごしてきたのだから、母性は備わっているかもしれない。しかし、男性は実感が沸きにくいものなのだとよく耳にする。このことからアタッチメントを子どもと分かち合い、こどもだけではなく親としても子供と一緒に成長するものだと考えるのがよいだろう。
親は子どもの中に豊かなアタッチメントをはぐくみながら、自分自身も子育てを楽しみ、親として成長し続け、幸せを感じることができたのならば、子育てはなんと楽しく、なんとたくさんの幸せをくれる営みであるのかに気づくことができる。
知識だけでは子育ては成立しない。しかし、アタッチメント理論は子どもの愛し方、育て方の原則原理を教えてくれる、素敵な知識である。

参考文献 「心の理解を求めて」 橋本憲尚 佛教大学

心理学入門 第一設題

第一節第: 社会的アイデンティティとその偏見について解説しなさい。

社会的アイデンティティについて

本題に入る前に、アイデンティティと呼ばれるものについて論じる。自分が何者であるかということを自己認識(自己定義)する「自己アイデンティティ」は、日本語では「自己同一性、自我同一性」と翻訳され、自己アイデンティティとは「社会・集団・信念」において自分がどのような存在であるかの自己認識を意味する。ここでは社会心理学者であるH.タジフィルとJ.Cターナーが考案した「社会的アイデンティティ」について論じる。「社会的アイデンティティ」とは「自分がどのような社会集団に所属しているか・自分がどういった社会的カテゴリーに該当しているか」という自覚(自己定義)にまつわる自己同一性のことである。自分は日本に所属しているから「日本人」である、自分は「〇〇商事の社員」である、自分は「〇〇大学」卒業であるから「〇〇大学OG」である、自分は「富裕層」のカテゴリーに当てはまるから「富裕層の一員で」ある、などじぶんがどのような社会集団や社会的カテゴリーに当てはまっているかによって規定される自己アイデンティティが社会アイデンティティと呼ばれるものである。この社会的アイデンティティは先に挙げた出身校、サークル、勤務先といった集団のほかにも、性別、民族、世代など多様なカテゴリーにもとづく
他の誰でもない「私」としての自己を定義している(個人的アイデンティティ)ときとは異なり、社会的アイデンティティを意識した状態では、私たちは所属集団のメンバーとして行動するそのとき一人一人は「我々」という意識によって自分を定義している。他者についてもその人がどういう人なのかはさほど問題ではなく、その人がどのグループに所属しているかがむしろ問題となる。タジフェルが指摘するように
私たちの行動は純粋に個人としての対人行動と純粋にメンバーとしての集団間行動までの間のどこかに位置づけられる。

カテゴリー化と偏見

社会的アイデンティティは「所属集団・所属カテゴリーの相対的な優劣」が自分自身の優越感(優越コンプレックス)や劣等感(劣等コンプレックス)につながりやすい特徴を持つ。カテゴリー化というのは「一流国立大学・一流私立大学・一般的な国公立大学・偏差値の低い大学」、「一流の大企業・普通の大企業・中小企業・零細企業・個人事業」、「富裕層・中所得層・低所得層」、「国内・国外・自国に友好的な国・自国に敵対的な国」というように、社会集団・組織をそれぞれの規模や評価、特徴によって分類することである。
私たちがある集団のメンバーだと感じることは、同時にある人たちはそこに属していないと感じていることになる。つまり「我々」と「彼ら」というカテゴリーに分類しているのである。前者を内集団、後者を外集団という。いったんカテゴリー化が生じるとたとえそれが恣意的、形式的、無意味なものでもカテゴリー間の差異は過大視される。ごく些細な差異でもあるいは現実に差がなくても「我々」と「彼ら」の特性、意見、行動は全く異なると信じられてしまう。ただしこの時点ではそれは単なる区別である。しかしこれに評価的要素(良い-悪い)が伴ってくる。  
内集団が自己を規定するとなると、当然ながら内集団は「優れた集団」であってほしい。内集団の名誉や価値は社会的アイデンティティを通じてそのメンバーにポジティブな自己概念を与えてくれる。ところがそもそも(良い-悪い)は相対的なものである。そこで内集団の価値を高めるための一つの手段が外集団を見下すことである。ポジティブな自己概念を得たいという心理が外集団に対する蔑視や中傷を誘う。
 また、内集団のメンバーについては「確かに同じカテゴリーに入っているが、一人ひとりは様々な特性をもつ個性ある存在である」と認識するのに対して、外集団については「彼らはどの人も大差ない」として十把一絡に片づけてしまう傾向もある。「若者だから」「年をとっているから」「男だから」「女だから」「OO人だから」「〇〇校の学生だから」「教師だから」など、ステレオタイプ的な見方は偏見や差別につながっていく。

偏見からの脱却
上記のような差別や偏見はいじめや国規模での戦争など大きな社会問題の原因になりうる。特に日本ではいじめ問題は自殺の原因となることがあるので問題視されている。文部省が設置した「児童生徒の問題行動に関する調査研究協力者会議」による調査結果1996)では、8~9割の子どもが「どんな理由があってもいじめはぜったいにいけない」と回答したにもかかわらず、いじめを見聞きした子どもの中では「できるだけかかわらないようにした」という回答が4~5割と最も多い。いじめられた体験がある子どもがおおいクラスには「言いたいことも言えない雰囲気がある」という。いじめとは「集団に強くこだわる意識」による現象であり「グループの内部に生じる目に見えない相互作用による現象」だと説明されたりもする。これはすなわちいじめる側といじめられる側にカテゴリー化されている。いじめる側には、見ているだけで救いの手を差し伸べず、少数化になるのを避ける者も含めるものとする。
このような各カテゴリーの集団には特有のルールや行動様式、価値観がある。集団の多数が実際にあるいは表面上承認しているルールや価値観を集団規範と呼ぶ。成文化されていようが暗黙のものであろうが、集団規範はメンバーにとっての枠組みでありメンバーは自分の意志や行動を規範に一致させることが期待されている。逆に言えばそうした枠組みのおかげでどうふるまえばよいかを知ることのできるものである。
しかし、なかには規範を受け入れられないメンバーもいる。さきほどのいじめの話でいうところのいじめられる側だ。そうした逸脱者に対して、一致への圧力や集団からの排斥という形で多数派の力が行使される。ここでの多数派とはいじめる側を意味する。このような多数派への同調の背後にある心理は一様とは限らない。一つには人が正しさを求めえる存在であることを発する。自分に確信が持てないときに他者を参考にして自分の意見や行動を変容することがある。したがって判断が困難であり、確信がもてないときほど同庁が起きやすい。しかし、人はまた他者に受け入れられたいと願う存在でもある。集団事態や特定のメンバーに魅力を感じるためにその人たちを模倣とする結果として同調する場合もある。
 このような心からの同調以外に、異質なものとして孤立してしまう恐怖から多数派へ同調したり、嘲笑や非難を恐れて追従する場合もある。集団に所属することが自分にとって重要ほど同調は起きやすい。ただし、これららは表向きの変容であり心から同意しているわけではなく、孤立・嘲笑・非難などの恐れがないと分かれば同調は消滅するれえる。多数派への同調といっても、その動機によって内面への浸透度や持続性が異なるのである。
多数派からの圧力は確かに協力ではあるが、抵抗不可能というわけではない。多数派によるルールや価値観であっても、永遠に規範として持ち続けられるものではない。いつかは変化するものであり、その原動力は少数派からの異議申し立てである。少数派が影響力を発揮できるのは自分たちの立場をかえることなく主張し(通時的一貫性)で立場の統一がとれていること(共時的一貫性)が必要である。少数派が一貫した立場をとることによって、その立場が多数者に対して目立ち、従来との規範が人々の中に生まれる。この葛藤を経験することによって多数者が自らの立場に疑問をもち、少数派から影響を受けえるようになる。少数派が私的流用をはなれていること(公正さ)や他者に迎合しない独自の行動をとっていること(自立性)が人々に認識されるかどうかも、少数者が影響力を発揮するための鍵となる。

結びに変えて
いじめで自殺する未成年のニュースを見ることが増え大変心が痛む。いじめられてる側は弱い立場に常にある。いじめる側はすぐには自らの過ちに気づかず、最悪の事態になりかねない。社会的アイデンティティが生じるのは多数の人間がいれば自然なことではあるが、少しでも疑問を持つ傍観者には今一度多数派に逆らい少数派の意見も聞けるしっかりとした自己アイデンティティを持ち合わせてほしい。

参考文献 「心の理解を求めて」 橋本憲尚 編著  佛教大学

2017年1月23日月曜日

佛大最終試験の勘違い【あなたも損するかもしれません!!】



22日の試験受けられた方、お疲れ様でした!!今年一発目の科目最終試験、手ごたえはいかがでしょうか??

科目最終試験、午前午後問題ありますので知りたい科目があればいつでもお気軽にコメントください(*^_^*)





今回の本題に入ります。



みなさん、ひとつ前の試験で出た問題は次の試験にはでないから、六問勉強しなくても5問勉強すればいい!!

と、思っていませんか??


私自身、そうだと思っていました。。。




しかし、写真は22日の実際の試験問題の午前と午後の分79、80なのですが
英米文学論の問題が一緒なんです。


しかもこの問題は、1週間前の特別試験でもこの問題でした。





ということは、

直近の試験にでていたからこの問題は勉強しなくていい!!なんてことはありません。

確かにかぶりにくいことは事実ですが、絶対に落としたくない単元ならなおさらだめですよね。





mixiの佛大コミュで直近の問題を教えあう光景をよく見ますが、あてにしすぎてもダメなんですね。。。





それでは、今回はこのへんで(^'^)

かっぱ

2017年1月18日水曜日

通信大学生かっぱまきのブログ: 日本憲法科目最終試験⑤

通信大学生かっぱまきのブログ: 日本憲法科目最終試験⑤: 日本国憲法 科目最終試験⑤ 法がなぜ必要か論じなさい 実質的意味の憲法はおよそ国家である以上、かならず備えているものである。根本の秩序を定める法規範がなければ国家の初歩的段階といわれる古代国家でも、権力的な秩序が備わっている以上日本国家成立...

日本憲法科目最終試験⑤

          日本国憲法 科目最終試験⑤

法がなぜ必要か論じなさい

実質的意味の憲法はおよそ国家である以上、かならず備えているものである。根本の秩序を定める法規範がなければ国家の初歩的段階といわれる古代国家でも、権力的な秩序が備わっている以上日本国家成立のこのかた、今日にいたるまで固有の意味における憲法をもっている。

 近代になると日本においても法は国民一人一人の人間としての尊厳を守るためのものになる。日本国憲法は、日本の歴史上初めて、個人の尊厳が日本の国家法秩序において最も大切な価値であると宣言したのである。その背景には、憲法が成立する以前、国家権力によって国民のためとし、個人の基本的人権が侵害された歴史がある。特に戦争というのは究極的に個人よりも国家を優先させ、個人を一人一人の人ではなく国家の「道具」に古代の人々はされていた。しばしば民主主義国家であっても憲法の縛りがなければ誤りを犯すのである。このような歴史的な反省をふまえて間違っても大切な基本的人権をその間違いによって侵さぬよう、国家をコントロールするものが「憲法」だ。つまり、国家に権力を与えた国民が権力行使を適正に行われるようにするため、国家をコントロールするものといえるだろう。これにより、国家は憲法に違反するような権力行使、すなわち個人の基本的人権を侵害することはできない。我々国民は自らを守る「憲法」を持つ代わりに国家が権力を濫用してる場合には、叱り国家を「憲法」をもとにコントロールしなければならない。

(文字数630なので付け足して書くとなおいいと思います byかっぱ)

2017年1月17日火曜日

英米文学概論 科目最終試験

            英米文学概論 科目最終試験

フォークナー
ヘミングウェイと並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠であり、南部アメリカの因習的な世界を「意識の流れ」を初めとする様々な実践的手法で描いた。代表作に「響きと怒り」「サンクチュアリ」「八月の光」「アブサロム、アブサロム!」などがある。ノーベル文学賞を受賞した。

ヘミングウェイ
ヘミングウェイはアメリカ文学史上重要な位置を占める短編小説を完璧な域にまで高めた作家の一人として記憶される。「ロストジェネレーション」の代表作家で、死と隣り合わせの現実に敢然と立ち向かう人間の姿を描く。ノーベル文学賞受賞。「日はまた昇る」「武器よさらば」「誰がために鐘は鳴る」「老人と海」など。

スタインベック
社会的不平等の下で生きる貧民な姿を共感を交えて描く。カルフォルニアを舞台にした貧乏な移住農民を描いた小説が多いが、生物学を通して培ったいわゆる「生物学的人間観」や「集団人」といった思考態度は、人間を描く作家としての基本の姿勢となっている。

ベロウ
ユダヤ系作家で現代米国文学を代表する一人。鋭い批判的歴史観をもって、ドイツ領邦の発展、封建制と国家の関係、都市制度などの問題を追求した。小説「宙ぶらりんの男」「その日をつかめ」「ハーツォグ」などがあり、ユダヤ系作家の枠をこえて現代人一般の本質に迫る内省的な作家であることを印象づけた。

サリンジャー

生まれも育ちもニューヨーク市で、いかにも都会的なはにかみとソフィスティケートに彩られた繊細巧緻な仕上げが作品の魅力の一つである。代表作は「ライ麦畑でつかまえて」や「フラニーゾーイ」など。特に前者は冒涜的言辞頻出のかどで教育界から強い批判をあび、評論家の評価も定まらなかったが、若者たちに熱狂的に迎えられ、現在では多国で翻訳されている。

日本国憲法 科目最終試験③

             日本国憲法 科目最終試験③

法と宗教の関係について論じろ
精神的自由の一つとして、日本国民はどんな思想や主義を持っていても心の内に留めておけば処罰されたり、思想や主義の変更は求められない。そして、人が自分らしく生きていくための心のよりどころには、思想や主義のほかにもう一つ「宗教」がある。
 人間が、一般的にどんな宗教を信仰しても許される権利を「信教の自由」というが、さまざまな宗教戦争を経て成立した経緯を持つ、歴史的に重要な、意義ある精神的自由権の一つだ。日本国憲法第20条で規定されている「信教の自由」は次の三つから構成される。

1、信仰の自由
2、宗教的行為の自由
3、宗教的結社の自由

しかし、これに対して宗教的行為の自由や宗教的結社の自由は、外部への行為を伴うものなので、他人の権利や利益になったり社会に悪影響を及ぼすと、公共の福祉に反し制限の対象になる。


 信教の自由を真に確保するためには、国家と宗教を分離する必要である。したがって、国教を定めることが許されないのはもちろん、いかなる宗教団体も、国から特権をうけたり、政治的効力を行使できず国やその機関が、宗教教育その他の宗教活動をしてはならない義務的情操を高める非宗教的教育を行ったり、宗教的起源をもつものでも社会生活の習俗となっていることを行うことまでも、国に対して禁止したものではない。日本国憲法は、政教分離を徹底させるために、財政面から公金や公の財産を宗教上の組織や団体の容に供してはならないという厳しい制限をおいている。もっとも、宗教団体が宗教的色彩のない行為をするときまで差別するのは適当でない。

日本国憲法科目最終試験②

            日本国憲法 科目最終試験②

「表現の自由とその制限について述べよ。」

言論・出版その他一切の表現の自由は、あらゆる手段によって思想を発表する自由である。それは、本来話す自由、書く自由であったが、現在はあらゆる思想や意見を自由に聞く自由、読む自由としての自由も極めて重要であり、送り手の自由とともに受け手の自由も保障されていると考えてよい。その意味では、この自由は民主制の基盤となるものである。新聞・雑誌その他によるほか、現代では多様な媒体が存在しており、これらの手段(たとえば映画、演劇、音楽、レコード、ラジオ、テレビ)による表現を含む。また、自己の思想や知識の発表のみでなく、事実の報道も国民に意見を形成するための素材を提供する重要な意思を持ち、報道の自由も当然に含まれる。報道の準備作業として行われる取材の自由は、取材活動が第三者の利益や公共の利益に直接抵触する可能性が高く、それだけ報道の自由に比して制約が加えられざるを得ない。もっとも取材を行わない報道はありえないから、報道の自由の保障は取材の自由なくしては内実を伴わない。
 広告もまた表現の一つであるが、純然たる営利的広告は、むしろ経済的自由権の行使としてとらえ、合理的な目的による制限を受けると解してよいだろう。

 表現の自由は、民主制と直結するものであるだけに、その制限が許されるためには厳格な基準に合致する必要がある。もちろん名誉棄損、プライバシーの侵害、わいせつなどにあたる表現は、一般的に言って価値が低いものであり、それらに事後的に法的制裁を加えることは必ずしも違憲ではない。しかしこの場合も表現が価値を含むときには、法の適用において価値較量を行い、表現の自由を侵すことのないように注意する必要がある。
このような較量を指導するものとして

①事前の抑制は原則として許されない。
②明確性の理論
③「明白かつ現在の危険」の基準
④「より制限的でない他の選びうる手段」


が定められており、このような厳しい基準で合憲性が判定される

日本国憲法 科目最終試験

日本国憲法 科目最終試験①            

「人間に値する生活の実現と法の関係について論じろ」
現代国家の任務は人権として単に国家から自由を保障するにとどまらず、貧困からの自由、欠乏からの自由、すなわち国家からの積極的行為を要求する人権を保障することにある。
 社会権はその意味で、20世紀憲法としての特色をもつ人権だ。もっとも社会権については、それを充溢させればさせるほど、伝統的自由権を制約しなければならない効果をともなうし、国家の財政裏付けが必要である。
 したがって現実の社会的・経済的状況から見てどの程度でそれを保障するかについて政策的考慮が働くことが多い点や、また社会権の保障の意味についてプログラム規定として国政の指針であるものもあり、具体的権利を与えられるとみられるものもあって差異のある点はその解釈にあたって、注意をようするといってよい。
社会権には
  生存権・・・国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有すること。
 教育を受ける権利・・・教育の機会的均等とともに社会権として教育を受ける権利を保障する。
 勤労の権利・・・働く意思と能力をもちながら働くことのできない者が国家に対し、働く機会を求める権利。
 勤労条件の基準の法定・・・国が積極的に立法によって賃金、就業時間、休息、その他の勤労条件を定めている。
 児童の酷使の禁止・・・年少者の労働条件についてとくに規定をおいているもの。
 勤労者の団結権・団結交渉権・団結行動権・・・労働者が使用者と対等な立場になって労働条件等をこうしょうできるようにするために法的に保障されたもの。
がある。

「人間に値する生活の実現」とは人間の尊厳にかかわり、社会の人々自身が国家の積極的介入により人間として生きていると事を実感する意味を持つ。

英米文学概論 科目最終試験

            英米文学概論  科目最終試験③

シェイクスピア
イギリスだけでなく世界的に認められた劇作家、詩人、役者。今日の英語はシェイクスピアによって高められたという人もいる。卓越した人間観察眼からなる言葉の豊かさや性格描写の巧みさなどで英国ルネサンス文学の最高峰とされた。四代悲劇「ハムレット」「オセロ」「リア王」「マクベク」が有名。この四作は1600年前後に集中しており、共通点は主人公が復讐劇や愛憎劇に巻き込まれた結果、最後はみな死を迎える点であり人間の葛藤を強く描き出した。
シェイクスピアは戯曲だけではなく、詩も多く発表した。彼の詩で特に有名な「ソネット集」は恋愛・美・政治・死など様々な分野のテーマで154番まである。

ミルトン
英詩史上ほとんどつねにシェークスピアに次ぐ地位を与えられてきたが、シェークスピアが主に劇詩を創作したのに対して、ミルトンは叙事詩の分野で巨大な足跡を残した。ピューリタン革命を支持する著作を著し、内面的自由の主張と共和制擁護の論陣を張る。晩年失明の逆境の中で宗教的主題による深遠な叙事詩を口述した。叙事詩「失楽園」「復楽園」など。特に失楽園では人間の心の持ち方にかかわる普遍的な節理を説いており、そのことが「失楽園」が今日まで語られる要因であると考えられる。


英米文学概論 科目最終試験

            英米文学概論  科目最終試験
『オースティン、ディケンズ、ブロンテ姉妹、ジョージ・エリオット、ハーディについて説明せよ』

オースティン
18世紀イギリス田舎町の中流社会を舞台とし、女性の結婚模様をリアルに辛辣に描いた。作品発表当時は今ほどの絶大な人気はなかったが甥による「想い出のジェイン・オースティン」出版がオースティンを世界的作家へ導いた。
 自由間接話法の発展に貢献したことで知られる。代表作は「高慢と偏見」「エマ」

ディケンズ
イギリス小説家。父が破産したため靴墨工場で働くなど貧困作家を味わう。長じて速記記者となり「ピクウィック・クラブ遺文録」の成功によって一躍流行作家となった。ユーモアとペーソスのある文体で下層市民の哀歓を描きビクトリア朝時代を代表する作家として名声を得た。

ブロンテ姉妹
イギリスのヴィクトリア時代の代表する小説家姉妹。シャーロット、エミリー、アンを指す。姉妹三人共同の「詩集」を発表の後、それぞれ小説を書く。シャーロットは「ジェーン・エア」エミリーは「嵐が丘」アンは「ワイルドフェル屋敷の人々」を発表しイギリス文壇に多大な影響を与えた。

ジョージ・エリオット
心理的洞察と写実性に優れた作品を発表した。「アダム・ビード」「サイラス・マーナー」「ミドルマーチ」などの作品で知られておりジョージ・エリオットは英国小説史上、小説の主眼を事件の展開から事件の性格描写に移したという点で注目される作家で優れた性格描写と田舎の自然描写によって新風をふきこんだ功績は大きい。

ハーディ

作家としてだけではなく詩人としても有名なイギリス作家。平易な日常語で詩を書く一方で韻律や詩型については様々な実験を繰り返し今日では「現代詩の父」と評する。「君主物語」によって栄誉に輝く。ハーディはこの詩に王者も平民も盲目的にあやつられ内在意志のままに生きるという彼の人生観を織り込んだ。

政治学入門 科目最終試験④⑤⑥

         政治学入門 科目最終試験④

集計民主主義について論じろ

民主主義は、国民の中から選挙によって選ばれた人が、国民のためを思って政治を行う形態で非常に理にかなっていてもっとも国が安定するものと思われた。しかし、選挙での得票や議会での議席数といった「数」による政治決定に疑問も少なくない。仮に厳密な調査方法を用いて行ったとしても、それを国民の「真の意思」とし、それに基づいて政治の重要決定を行うことに対して、常に疑問がつきまとっている。

同じことが議会制民主主義、政党政治に対しても問いかけられている。国会で過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数を取れば政権を掌握し、思うとおりの政治と政策を実現できる。仮に過半数に届かなくても、他の政党と連立を組んで多数を占めることで可能になる。こうした政党政治の在り方に対して、そこはかとない疑問を多くの国民が抱き始めているのではないだろうか。

こうした現在の民主主義を集計民主主義と呼び疑問を呈する論者もいる。こうした「集計民主主義」とも呼ばれる「数による政治」への処方箋として、討論や討議が必要とされる「討議(熟議)民主主義」の考え方が位置づけられるとはいえないだろうか。たとえば国民投票や住民投票もそれ自体が問題なのではなく、安直にそれに頼ることが問題だ。したがってそうした直接民主主義の問題の処方箋は投票が決する以前にいかに十分な議論がなされるかというところにあるだろう。なぜなら事前の議論と討論のなかで、自らと異なる主張や意見に接することが重要であるし、またそのなかで自分や他人の主張や意見も変わる可能性があるからである。議会政治でも同じだろう。単に「数による決定」ではなく、それに至る議論が十分に行われたかどうかが重要なのだ。したがってその議論の過程で時に政党の枠を越えて賛否が変わることも否定されるべきではないだろう。

政党は市民社会に対して、政党は市民社会に対して大きく道を譲ることで、行き詰りつつある現在の政党政治と民主主義に新しい道を開くことにはならないだろうか。そしてそれはもちろん、討議民主主義とも反する方向性ではない。その意味で政党そのものの存在意義を大きくみなおすことが必要だ。



          政治学入門 科目最終試験⑤

日本の男女平等参画政策について論じなさい

平成11年に「男女が社会の対等な構成員といって自らの意志によって社会のあらゆる分野における活動に参画する機会が確保され、もって男女が均等に政治的、経済的、社会的及び文化的利益を享受することができ、かつ共に責任を担うべき社会を目指す」といった内容の、男女共同参画社会基本法が定められた。
 つまり、労働市場への女性の参加だけではなく、男性が家事・育児・介護などに参加できることも男女共同参画なのだが、そうした理解は広がっていない。
この男女共同参画が十分に浸透しなかった理由に「男女共同参画は働く女性の支援という印象」を与えてしまったのである。
 
 同時に男性が妻に対し「子供ができてからもずっと職業を続けるほうがよい」とする割合は92年と02年の調査でほぼ倍増し、実際妻に高収入を求める男性も今や多い。リストラや賃金カットで、男性一人で家計を支え切れなくなる不安が関係していると考える。また、男性の育児参加も1%代とまだ目標達成には程遠い。むしろ近年子育て期男性の労働時間は伸びている。厚生労働省は父親に育児の参加を求めながら、それを可能とするような労働時間規制を行っていないからだ。

 これから女性の労働力抜きには今後さらに進む少子高齢化を乗り切れないとの認識が普及したため、政府はこれから女性の戦力化への方向性がさらに強まっていくと考えられる。さりとて再び性別役割分業を強化して女性の専業主婦化を促進することは少子高齢化傾向を所与するのならば現実的ではない。
 ワークシェアリングなどを通じて男性も今より短く働き家庭責任を終えるような男女共同参画を男性の働き方をも含む企業社会全体の見直しを伴うものとして定義しなおす必要がある。


          政治学入門 科目最終試験⑥

小選挙区制度について論じなさい

選挙制度にはさまざまな方法があるが、日本の衆議院選挙を例にすると、小選挙区制と比例代表制を組み合わせて行われる。小選挙区制では、一つの選挙区で一人だけ当選する。
長所としては選挙区が比較的狭いため、選挙費用も低くきめ細やかな選挙運動が可能である。大政党に有利で政権が安定すると言われる。端緒としては、死票が多くなり少数意見が反映されにくい。現在衆議院議員選挙では、小選挙区制と比例代表制を組み合わせた小選挙区比例代表並立制が導入されている。

もう一つ大きな小選挙区制度の問題がある。それは得票率と議席率との間に乖離が生まれるという問題が指摘される。しかし、同時に限られた民意の移動で議席の大逆転が起こることも問題である。無党派数がすでに過半数を超えている日本において民意の移動が増幅されて議席移動を起こしやすい小選挙区制の特性の持つ意味はきわめて重大である。現在の無党派層の中核を構成しているのは、政治的関心が高い「積極的無党派層」である。「積極的無党派層」の投票行動は、政党支持からは独立しており、常に同じ政党に投票するとは限らない。その投票行動は、政党支持からは独立しており、常に同じ政党に投票するとは限らない。その投票行動の変動が、民意の動きに過敏に反応する小選挙区制の特性と連動した時、政治への不安定化へとつながる危険性は否定できない。このように考えると、小選挙区制と二大政党制は、政権交代の必要条件ではあるかもしれないが、安定した政権運営の十分条件では決してないのである。

政治学入門 科目最終試験①②③

          政治学入門 科目最終試験①

住民投票の可能性と限界について論じよ

選挙で選ばれた代表者が志向する政策と社会が望む政策との間に、ズレが生じることは、十分に起こりうる。実際、社会の少数の人が望んでいるにすぎない政策が、あたかも多数派の意思のごとく推進されることは珍しくない。
 このような問題に市民は「おかしい」という素朴な疑問や「放っておけない」という思いから、行動をとりはじめている。そのようななか、市民が注目している一つの手法がある。それは直接民主主義的な手法である住民投票である。住民投票は民意と代表者の意思の間のズレを確認するうえではもちろん、市民の意識と知識は住民投票において妥当な判断をくだすことをかのうとするところまでその水準を高めていると考える。
 

 しかし、住民投票には限界がある。事例の一つに、袖ヶ原市が実施した区画整理事業の是非を問う住民投票では市民が積極的に議論や投票に参加したことで、反対多数という結果に終わった。この事例には住民投票の有効性を発表した一方、その限界も一緒に発表している。それというのは反対多数の結果はまず事業を「止めた」だけであり、ただちに事業の今後を方向付けるものではなかったからである。それも無理はない。住民投票で反対票を投じた人の間では、事業の白紙撤回を望む人から、条件付で事業を容認してもよいという人まで、かなりの考え方の幅も認められるからである。その結果この住民投票は、民意が「現在の計画に反対」する以外に何を求めているのかを表現できていない。つまり、行政や議会がだしてきた政策にブレーキをかけることはできるものの、統制型の住民投票には場合によっては「では民意はその先に何を望んでいるのか?」という問いへの答えを必ずしも出せない限界があることがわかる。



          政治学入門 科目最終試験②

国境を超える市民について論じろ

現代では国境を越え、グローバル化が広がり、市民の連帯運動が活性化している。その背景には、環境破壊や貧困、軍事紛争といった問題自体がグローバル化していることもあるが、大型ジェット機やインターネットの普及によって、市民が国境を越えて連帯する手段がはったつしたことも影響している。アメリカを中心とした先進国の国益追求と、それに連携した世界銀行やIMFWTOなどの国際機関、そして多国籍企業のグローバルな活動はまた、世界中で詩移民のグローバルな対抗運動を活発化させている。
 
このような個々の課題や行動の展開とともにグローバリズムを問い直す運動も活発化している。それはグローバル化が進めば、貧富の差が生まれたり、文化の後退が余儀なくされることから反対意見は生じ、グローバルな経済と政治について交渉や話し合いをもとうとするたび世界中から異議を申し立てる市民が集まる光景がみられるようになってきたからだ。 これは市民にすぎず、国家規模でグローバル化の弊害を是正する動きも浮上している。

 そのような対抗グローバリズム化を制御し、「もう一つの世界」を作っていくことはできるのであろうか。そのためには、積極的な変革のビジョンに基づいた制度的変革に取り組むことが必要であろう。国家レベルでのグローバル至上主義のコントロールを可能とする改革も避けて通れない。また、市民の意識や生活スタイルを含めた市民社会レベルでの変革も重要である。
 その意味でグローバリズムの現状を根本的に転換するには、対抗する市民の側にも構想力や政策的思考、実践力が求められている。



          政治学入門 科目最終試験③

スローな民主主義について論じろ

現代の民主主義を実質化したいと考えるならば、決定(採決)の前には十分な議論が行われることが理想である。さらにテーマによっては議論の前に十分な予習(調査、研究、熟考)が必要になってくる。よって十分な余暇がなければ、民主主義、とりわけ参加型の民主主義は成立しない。近年政治学では「熟議民主主義論」が盛んになっている。「熟議」とは「熟慮」+「討議」の意味である。もしも「集計」だけが民主主義の命だとすれば民主主義の過程はいくらでも技術的にスピードアップが可能である。しかし「慎重な討議」を欠いた民主主義は健全な民主主義とは言えない。現代においてとりわけ熟議民主主義の発展、ゆっくり時間をかけた討議や後のクールダウンのための時間貯めが必要とされるだろう。

現代での議会制民主主義では一般に「投票」中心の性格を有している。選挙はわたしたちの私的な選考(利益)を投票によって表明しその集計結果が複数の政党間の議席配分へと変換され、与野党関係がきまる。議会の機能はハーバーマスの批判のとおりその「審議」機能よりも「表決」機能に重心がおかれ(審議の過程は法案の成否に大きな影響を与えず)議席配分が議場での投票を介して政策決定へと変換される。要するに全体として多数決による「集計」の過程として理解することが可能なのである。

本来民主主義の根幹にあるには「大事なことは自分で決めたい」という私たちの「自己統治」の願いであり「自分が参加しない意思決定によって影響を受けるのは納得できない」という自立の欲求である。わたしたちの意見は熟慮を介してまた他者との真摯な討議を通じて初めて確固たるものに成長する。そのうえで行政は国民参加の内容や質の向上に向けた仕掛けつくりをし、また熟議のなかで意思形成のどの段階で正当性を調達しどのような成果を期待するのかを明確にし整理していくことで熟議民主主義の発展につながると考える。



自立学習入門 A6001 A判定

設題:1.「考える」ためには「問う」能力は欠かせない。この「問う」能力を高めるために「読む」能力と「書く」能力が必要である。このことを自分の学習経験や仕事に照らし、具体的に説明しなさい。

はじめに
佛教大学通信課程に通うにあたり、自宅学習が今後の中核であり、学習生活を自ら管理しすすめていかなければならないというところに、通学方式の大学と大きな違いがあると考える。情報を正確に理解する、読む能力。自分が他人に伝えたいことを正確に伝える書く能力。質問をする、疑問をもつという問う能力。この3つの「読・書・問」という学習の基礎ともいえる三つの能力のそれぞれの特徴や関連性を自らの経験を交え以下より論じる。

1 「問う」ための「読む」「書く」能力
解決したい問題に直面した時、まず「何を研究するのか」「何を考えるのか」自分に問い、解決策を考える。学習生活でいえばテキストを読むときには「この文章で大切な個所はどこか」という事が問題になり、リポートを書く場合にも「何をどのようにかいたらいいか」という問題について「筋道を立てて思い図る」あるいは「頭をはたらかせて判断する」はずである。すなわち「問う」ことは考えることの出発点であり「問う」ことによって考えることができるようになる。ここで「問う」という言葉を選ぶのは「考える」という言葉は多義性があり、必ずしも知的な思考だけを意味しているわけではないことと、もう一つに考えるという言葉を知的な思考の意味に限定して使うとしても、その方法と技術については「読む」「書く」と同じ次元で述べることができないからである。(参考:基礎教育I-VR 第13回)そして、解決するために他から与えられる情報を正確に理解する「読む」能力が必要とされる。情報とは文章に限らず、記号や数式はもちろん、絵や写真、映像からもだ。さらに正確に読解するには読む方法を知り技術も必要になってくる。次に読み取った情報を正確に確実に他に伝えるため、「書く」能力を使う。単に文字や文章を書くという事ではなく、スピーチやジェスチャーや顔の表情で伝えたり、コンピューターを駆使して自分の意思を伝達することもある。
特に、「問う」の能力については、この能力なしに他の二つの能力の向上は期待できない。「問う」とは問題を自覚し、発見しその解決を意識的に求めることだ。つまり、問うためには与えられた問題を解決するための「問題解決能力」とは別の能力、「問題発見能力」が必要であると言える。相手に正しい答えを期待する質問をもったり、知的な思考を行う場合において他から与えられる情報を批判的に受け取り、常識や曖昧さ、根拠、矛盾、経験を問うことや「もし」を問うこと、異論を問うことなど「なぜ」を問う姿勢を持ち続けることも大事だと言えるだろう。問題を発見できたところで、深く考え読み解き、知識はより深いものとなり、書く内容は問うことによって明確になる。逆に「読」がなければ「問」はないし、かくことによってますます「問」は明確になるともいえるだろう。これにより、「読・書・問」の三つの能力は独立しているものではなく、それぞれが連動して活発に働いており、いわば螺旋状に向上していくものであると言える。

2.「読む」「書く」「問う」の能力と自分自身の経験
1で論じた三つの能力は学習に限った話ではなく日常生活においても大切なことだと考える。私がアルバイトをしていた時にもこの能力の大切さに気付いたことがある。初めての飲食店での接客業で、右も左もわからなかったが、忙しい職場であったためなかなか仕事のことを周りの人に聞けずにいるとき、仕事を覚えるのが遅く、逆に迷惑をかけていた。しかしこのままではいけないと追い込まれたときに考え、積極的にわからないことは人に聞くように努めた。「なぜこの場合はこの仕事をしなくてはいけないのか」「この行動にはどういう意味が含まれているのか。」そして、教えてもらったことは深くもう一度頭の中で整理してから正確に理解するようにし、自分の考えを誤解がないよう言葉で表したり、メモをとったり、どこまで理解ができているか正確に伝えるようにも注意した。受け身ではなく主体的に疑問を解決しようと動いたことにより、問題が解決して対人関係を円滑にしたのはいうまでもない。疑問を周りの人に「問う」、教えてもらった情報を「読む」、自分の考えを正確に「伝える(書く)」。このことから三つの能力は学習はもちろん日常生活にも必須であると言えるだろう。これは一つの例であったが、なににおいてもまずは何とか解決しようという姿勢を忘れないようにしたい。

設題:「問う」能力を高めるために、印刷メディアやインターネット端末機器などをどのように活用しているか、いないか。自分の学習経験や仕事を例にして、今後の学習課題を書きなさい。

3.「問う」能力とメディアとの関係
「問う」能力を養おうとすれば、自然に浮かんでくる質問や疑問だけでなく、意識して「問い」を探すこと、そして知的な思考を行う場合には、やはり他から与えられる情報を自覚的な努力をもって批判的に受け取り、「なぜ」を問う姿勢を持ち続け、またその解答を見出す方法や技術を学ばなければならない。昨今のマルチメディアの発達により、昔と比べてはるかに問いを持った時には答えを導きやすくなった。特にインターネットはだれでも、どこでも、誰からでも情報を仕入れることができるユビキタス社会の象徴であるといえるだろう。(基礎教育I-VR 第15回)インターネットにつながるのはコンピューターだけではない。身近なものとして常に持ち歩いているスマートフォンをよく活用している。これにより、わからないことが3分ほどで解決できることも少なくない。印刷メディアよりスマートフォンを使って疑問を解決するほうが最近では多いが、便利がよすぎるゆえ、自身が忘れそうになることがある。それは、「なぜ?」と思うことは知識への渇望をもたらし関連知識を強烈に吸収する原動力にはなるが、簡単に答えが分かってしまうことから知識を得ること事態が目的化し、そこに達成感が生まれて終わってしまう。深く読み取ったり、その知識を踏まえ行動に移さないのである。そしてもう一つは、沢山の情報が蔓延っているので情報の取捨選択が難しいことだ。しかし、インターネットをはじめマルチメディアは学校生活においても欠かせないものである。情報の受発信だけではなく様々な活用方法があり、広範囲に及んでいる。うまくこの便利なものと付き合っていくためには、頼りすぎないことと受け身ではなく主体的に問うことを気を付けたい。情報化社会において自ら疑問を持ち主体的にある程度の努力を持って解決しないと情報に振り回されがちだからだ。

4.今後の学習課題
佛教大学では学習意識が高いながらも自己管理を一人で続けることが困難になり学業の半ばで学ぶことをあきらめなければならない人もいると聞く。実際に私自身も学習の進度や継続に不安がある。以前通学性の大学に入学したものの途中で中退をしたことがあるが、今思うと学習意識が低かったのはもちろん、この単元で学んだ「読む、書く、問う」の3つは成立していなかった。特に問うに関しては積極性が足りず、欠けていた。それをふまえ、まず「問う」能力の向上のため、意識して「問い」を探し、またその解答を見出すためのメディアとの付き合い方を考え、次に読みたいように自己流に読むのではなく、書かれている文字や数字や記号を手がかりに内容を正しく理解し、自らの「読む」技術を向上させたい。そして最後に、正確にものを伝える「書く」能力だが3つの中で最も苦手なことであるので、根気よく地道にこなしていきたいと考える。

5.参考文献
基礎教育I-VR vol.1
基礎教育I-VR vol.2

自立学習の手引き 読む・書く・問う 公益財団法人 私立大学通信教育協会

文学入門 A6102 A判定

第二設題 近現代の作品の中から二つの章を選びその各々について次の問いに答えよ。
作品名 『震災』 永井荷風
全文
今の世のわかき人々 われにな問ひそ今の世と また来る時代の芸術を。   われにな問ひそ今の世とまた来る時代の芸術を。われは明治の児ならずや。 その文化歴史となりて葬られしとき わが青春の夢もまた消えにけり。 団菊はしをれて桜癡は散りにき。 一葉落ちて紅葉は枯れ 緑雨の声も亦耐えたりき。 円朝も去れり紫朝も去れり。 わが感激の泉とくに枯れたり。 われは明治の児なりけり。 或年大地俄にゆらめき火は都を燬きぬ。 柳村先生既になく 鴎外漁史も亦姿をかくしぬ。 江戸文化の名残烟となりぬ。 明治の文化をまた灰とはなりぬ。今の世の若き人々 我にな語りそ今の世と また来む時代の芸術を。 くもりし眼鏡ふくとても われ今何をか見得べき。 われは明治の児ならずや。去りし明治の世の児ならずや。

鑑賞文 この詩にはたくさんの芸術家が登場する。 團菊→歌舞伎の九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎 桜癡→福地桜癡 一葉→樋口一葉 紅葉→尾崎紅葉 緑雨→斉藤緑雨 團朝→落語の三遊亭円朝 紫蝶→新内節の柳家紫蝶 柳村→上田敏 鴎外→森鴎外 
永井荷風が親交のあったこれらの芸術家を連ね、関東大震災によって何もかも奪われたという切実な思いを書いている。後半部分を現代語で解釈してみると「曇った眼鏡を拭いても綺麗にしても、私には今何を見ることができようか?時代が変わった今の世の価値はわたしの目には何も見えない。私には明治が育んでくれた明治の人なのだ。明治に在った価値が、震災で消えてしまった今の世には、私には見えない、理解ができない。私はすべて消え去った古い、明治の人なのだ。」と訳せるだろう。荷風が関東大震災を江戸期から脈々と受け継がれて明治期に大輪の花を咲かせた歌舞伎や落語や戯作などの庶民文化や、荷風自身もその一翼を担った新時代の文学・芸術などの「喪失」として捉えている視点が鮮烈である。これほどまでの喪失感に、荷風が育まれ、魅惑されてやまなかった明治の文化への愛を感じることができる。荷風の「明治の児」にこだわるのは、後世からすれば時代が変わると断絶・変化に目がいって連続性はつい見過ごしがちになるが芸術や文化には流れがあり忘れてはいけないという気持ちがあるのではないだろうか。また、「われは明治の児なりけり」というひょうげんであったものが終盤では「われは明治の児ならずや」と繰り返されている。初めは断言した意味合いであったが、後では打消しの「ず」と係助詞「や」がついたものであるから「われは明治の児だろうか(いや明治の児だろう)」というように作者自身が自身に問いかけ、また再確認を繰り返し行っているような印象を受けた。日本人の国民性は謙虚で勤勉であるが時におおきなものの流れに流されていくような性格があるとよく聞く。荷風は時代が流れ、震災が起こり文化が消え行ってしまうさなかでも自分自身に自分は明治の時代の人間なんだと言い聞かせ、ある意味頑固にストイックに自分を貫き通すような人物ではないだろうか。また、私たちも時に荷風の生きざまを見習わなければならない。

作品名 「サーカス」 中原中也
全文 幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました幾時代かがありまして 冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして 今夜此処でのひと盛り 今夜此処でのひと盛り
サーカス小屋は高い梁 そこにひとつのブランコだ 見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて汚れ木綿の屋根のもとゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が安いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯 咽喉が鳴ります牡蠣殻と ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
野外は真っ暗 暗の暗 夜は劫々と更けまする 落下傘奴のノスタルジアと ういあーん ゆよーん ゆやゆよん
鑑賞 全体的に非日常のかそかなる光景を謳いあげることで、暗い時代に生まれた自分たちを曝け出そうとしている詩ではないかと考えた。幾時代とは現実の人類の歴史であるが詩人はその現実から離れ飛翔する。そうすることで悲惨な戦争もまるでセピア色に変色した過去の思い出写真のようにみえる。つまり「茶色い戦争」とは目に色鮮やかに思い浮かぶ辛い戦争も今は茶色の暖かく見守れる古ぼけ色あせた写真に変われるほど人々の中では戦争はもはや歴史に変わったのではないかと感じた。二節ではいくらでも辛い冬のような時代がありさらに突風が吹いている中、今は現実から飛翔しサーカスという非日常に浸ろうとしているのが分かる。また「幾時代かあがありまして」という句を繰り返すことで物語的な雰囲気が醸し出され、その物語は遠い遠い過去を起点として始まるという事を感じさている。その遠い過去にあったことは「茶色い戦争」でありまた冬に吹く「突風」である。その二つの隠喩には作者の中に残っている苦難や失意であろうか。「サーカス」というワードが度々登場するが「非日常」を表すたとえであることは間違いないだろう。サーカスというと今はすっかり見なくなったが昔は街々を移動して広場に大きなテントを張って人々をたのしませてくれたものだ。サーカスが来れば、必ずみんなが喜び心浮き浮きとその開演を待つだろう。一時現実の辛さや苦しみを忘れさせてくれる象徴ともいえる。特にその演目の中で皆が楽しみに待ちわびスリルに興奮した空中ブランコ。作者はその最大の演目を「見えるともない」と表している。ここにおいて作者がさらにサーカスの非日常でさえも離れ飛翔を再開したことを示している。そうするとあの手に握るスリル満点のショーが途端にその本質的な安っぽさを露呈する。その擬音が激しくダイナミックで素晴らしいはずのブランコであるはずなのに、「ゆあーん」等で表されているところではないか。またこの擬音にはどこかさみしさのほかに不気味さや不安な心情を感じた。また薄汚れたテントの安っぽい木綿が気にかかる。真剣に演技する人間を照らし、輝かせるための照明の強い光はかえって安っぽさを見せつけさらに華麗に笑顔で軽々とショーを見せている演者が実は必死になっている姿を晒してしまっているのだ。さらにそれを夢中でみている観客は人間の知性のようなものを失った状態であり、緊張して唾をのみこむ様は堅苦しいガチガチという音が聞こえそうな無様さだ。一方テントの中は熱気あふれる夢のような空間であっても、外の現実は暗く、また観客たちが夢中で過ごすほどにますます暗くなっていく。墜ちいく人間、暗くなる時代。その中で一時の過去の美しい思い出に浸る人々の哀れさや悲しみを感じる。また一つの可能性ではあるがブランコに乗っているのは作者という事は考えられないだろうか。場末のサーカスでそのブランコは「見えるともないブランコ」であるということは実際に存在しないのかもしれない。「ゆあーん」等擬音も作者の心情を表しており、作者の心の中は不安定な状況とも考えられる。そしてこの擬音からはゆったりと自分の芸を披露しそれに魅了される観客。その観客を「観客様」と作者はまずもちあげそのあとで「鰯」とたとえる。また歓声を牡蠣殻が鳴るようだと嘲笑しているようにも感じる。
最後の一連は特にそれまでの連とは様子が違う。つまり、作者の視点がサーカスの外に動いているという事があげられる。「夜はますます更けまする」とあるがまだこれ以上に「真っ暗」になっていくことを暗示する。そんな中サーカス小屋は「楽下傘奴」とたとえられ空から降ってくるよう描かれますます現実味を感じられない。あるのは「ノスタルヂア」のような作者の気持ちのみだ。作者は不安定な心境の中、ただ故郷を思い浮かべているのであろう。消えてゆくものをみつめながら「サーカス小屋」を「ノスタルヂア」=「故郷を懐かしむ思い」ととらえ、決して戻らないあの遠い時代に感じたやさしくあたたかな心の中のふるさとと向き合っているのかもしれない。


参考文献 声に出したい日本語 斉藤孝 草思社