2017年1月17日火曜日

英米文学概論 P6101 B判定

第一設題 『ベイオウルフ』、チョーサー、スペンサー、ダン、スウィフト、ブレイク、テニスン、ワイルド、フォスター、モームについて述べなさい

『ベイオウルフ』
『ベイオウルフ』はイギリス最古の作者不詳の叙事詩と呼ばれる、主人公の偉業を格調高い言葉でつづった朗唱物語で、長い間語り継がれてから文字にかきとめられるものである。約3000行と古英語文献の中で言語学上最も長大な部類に属することから言語学上も貴重な文献である。現在ロンドンの大英図書館に保管されているコットン古文書に一部残っている写本は10世紀のものと推定されるがこの詩はすでに八世紀には完成していたと考えられている。物語の特徴として主人公の戦う相手は生身の人間や部族でなく、怪人、魔女、竜といった空想の存在であり史実の戦争の記録ではなく、実在した英雄の異形を讃える英雄詩とも違う。また本来ゲルマンの英雄叙事詩であったとともにあとからキリスト教的な表現が組み込まれており、古き良き伝統と新しい宗教が入り混じる時代の作品であったと読み取れる。

チョーサー(1340年頃―1400
英国の詩人。「英詩の父」と呼ばれ、ロンドン英語を文学的標準語の地位につけた人物。鋭い人間観察と寛容なユーモアにより、中世ヨーロッパの物語文学の集大成ともいうべき『キャンタベリ物語』を発表。幼少のころから宮廷に出仕し、長じて軍人、外交官、税関監督、代議士等々の公職をれきにんしており、こうしたいわば高級官吏」としての多彩な経歴から得た人間理解の深さは後期作品のリアルスティックな人間観によく表れている。チョーサーの人間を見つめる眼はしばしば鋭い風刺を発揮することもあるが、総じて寛容なユーモアに満ち人間の思想や行為の価値をさまざまな視点から見つめている。このような価値観を持ち合わせるチョーサーが嫌ったものは硬直した精神から生じる事大主義であった。人間の思想であれ、行為であれそれが誠実の仮面の下に独善に陥ったと見たときチョーサーは笑いものにしていることが文献からわかる。

スペンサー(1552年頃―1599年)
イギリス、ルネサンス期を代表する詩人の1人である。彼はチョーサーを敬い、英語による牧歌という新機軸の可能性を追求し『妖精の女王』を含むいくつかの作品でスペンサー連という詩形を残し構成の詩人の念頭を去ることはなかった。スタンザの主な韻律は弱強五歩格で押韻構成は「ababbcbcc」である。最後の行は6韻脚ないしは強勢をもつ六歩格である。このような行はアレクサンドランとして知られている。スペンサーの発明はイタリアの詩形の八行詩体から影響を受けていると唱える学者もいる。また後期の作品で叙事詩をかくようになってからも最後まで牧歌を手放すことなく詩人としての自己の位置を見定めるツールとして牧歌を用いた。仕事にしていた官僚と詩人、公の詩人と私の詩人、英詩における先達チョーサーとのかかわり、パトロンや権力者とのかかわり、こういったすべての問題がスペンサーの牧歌に包含されているのである。

ダン(15731631年)
彼は英国の詩人で聖職者としても活動しており、大胆な機知と複雑な言語を駆使した17世紀の形面上派詩人の中心的存在であった。オックスフォードやケンブリッジの両大学で学びながら両方卒業していないのは旧教信仰のためであったとされる。ロンドンの法律院で法律を学ぶかたわら若い宮廷人たちと交わり自由奔放な詩を書いてもてはやされた。リベルタン(自由思想家)とよばれる詩風の恋愛詩や風刺詩が特徴。ダンの詩のほとんどは生前に発表されず、原稿によって友人たちに知られていたが若いころの愛の詩も後年の宗教詩もきわめて個性的であった。代表作は『蚤』『日の出』といった唄とソネット、『死よ驕るなかれ』の一説で知られる『聖なるソネット10番』や『冠』といった宗教詩がある。

スウィフト(1667年―1745年)
アイルランド生まれで作家である。幼いころから家庭環境に恵まれず、ダブリンのトリニティカレッジを出て、政治家の秘書、牧師の職につき当時の政治、宗教界を風刺する『桶物語』や古代と近代の優劣を論じて前者を支持した『書物戦争』を書き、攻撃的な風刺作家として本領を発揮した。また1726年に発表した『ガリバー旅行記』は小学生から政治家までが読むベストセラーとなった。これは七年前にでた『ロビンソンクルーソー』に対抗して書かれたもので四部作の冒険物語の形をとって全く違った視点から見た場合の人間のおかしさを風刺したものである。そして当時流行した冒険物語に形を借りた透徹した人間風刺であり、家庭的なあたたかさを知ることの少なかった作者のするどい筆致は本書をすぐれた人間洞察の書としている。

ブレイク(17571827年)
18世紀から19世紀にかけてのイギリスの詩人、画家。ブレイクは詩の才能はもちろん、絵の才能ももちあわせていた。この才能はダンテやシェークスピア、聖書などの独自解釈の挿絵を制作すると同時に「無垢の歌」「経験の歌」「天国と地獄の結婚」などの詩や「四人のゾアたち」「ミルトン」「エルサレム」などの預言書にいかされた。この中の「ミルトン」の序詞「あの足が」が1918年にヒューバート・パリーによって音楽がつけられたものが聖歌『エルサレム』としてまたは事実上のイングランドの国家として現在のイギリスでは有名だ。古代ブレイクの詩と絵は当時はまったく認められず貧困のうちに生涯を閉じたがいまや世界的にも人気があり、かれの研究をしている学者は少なくない。

テニスン(1809-1892)
イギリスの詩人でヴィクトリア朝の時代精神を先取りし進化論徹科学思想と宗教のモラルとの間に生まれる懐疑と不安を表したとされる。彼の代表作『インメモリアル』は彼の最愛の友であったA.ハラムの死に対する悲しみを十年の年月をかけてつづったテニスンの代表作であり、この本の出版により詩人としての地位を確立し、その後ウィリアムワーズワスの後任として桂冠詩人としての役目も果たした。

ワイルド(18541900年)
イギリスの詩人。ロンドンで風変わりな服装をした彼の芸術至上主義的言行は常に世間の耳目を集めていた。彼の唯一の小説「ドリアングレイの肖像」は芸術至上主義の代表作となり、また劇においても才能を発揮する。彼の最後の劇「真面目が肝要」は風習喜劇の傑作とされた。同性愛の罪で投獄された際の申し開きのため獄中でかいた手紙を集めた「深渕から」は彼の芸術論を知るために重要である。

フォスター(18791970年)
イギリスの小説家。フォースターの作品には世俗的なヒューマニストとしての視点があり彼の作品にはしばしば有名な題辞である「社会の毛辺を越えて」お互いに理解し合おうとする人物が特徴になっている。フォースターの最も有名な二つの作品「インドへの道」と」「ハワーズ・エンド」は階級の違いによる相容れなさについて試した作品といえるだろう。特にインドへの道は植民地に住むイギリス人の思い上がりを描いたこの作品はフォスターの代表作だ。90歳で死ぬ前年、メリット勲章を授けられた。

モーム(1874年―1965年)
フォスターと同時代活躍した小説家。23歳の時に医師免許を取得するも翌年からパリにて文学に没頭した。病院時代の苦しい経験に基づき処女小説「ランベスのライザ」をだし、その後は書いた劇が次々と上映され好評を博した。小説家としては自伝小説「人間の絆」によって認められ、以後モームは世界的な人気作家になった。画家ゴーガンを思わせる主人公ストリックランドの一生を描いた「月と六ペンス」はタヒチ旅行で取材した名作である。またモームの最高の作品とされる「お菓子とビール」はハーディらしい文豪の妻を主人公とする喜劇小説である。モームは短編小説の名手として知られサモア島の宣教師の自殺を描く「Rain」などは英文学最高の傑作とされた。「The summing up」に自ら書いているようにモームは二流のトップの地位を占めついに一流作家と認められることはなかった。

参考文献

イギリス・アメリカの文学史 作家のこころ 南雲堂 福田昇八著

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