2017年1月17日火曜日

英米文学概論 P6101 A判定

第二設題:エマスン、ソロー、ホイットマン、ジェイムズ、ドライサー、フロスト、パウンドについて述べなさい。

エマスン(18031882年)
1836年の評論「Nature」において超越主義哲学を世に打ち出した無教会主義の先導者であった。この「自然論」は前半では主として自然を、後半では人間の精神を論じ自然は精神の象徴であり、事物と人間の思想との間には対応関係があると指摘し、感覚を超越した直観による真理の把握の必要性を説いたものである。エマスンにとって自然は、自己と宇宙の真理に至るための「理性」によって征服されるべき対象であり、人間がその前でおののき、自己の卑小さと、非力さを徹底的に思い知らされる驚異の対象ではない。彼は西洋文明の伝統からもアメリカ宗教の伝統からも自己信頼によって独立できると説き自然は思想の化身であるとして自然を神の意志の表れと見たのである。この本には真理は経験を超えた直観によって把握されるとする彼の超絶主義の中心思想が述べられている。エマスンの説く超絶思想は一見難しそうにみえるが、彼の講演が一般の人からも広く求められたのはどのように悪いことをしても償いにより救われる、とするその楽天思想のためであった。このために彼は当時もっとも尊敬される講演者であった。

ソロー(1817年―1867年)
1845年7月から2年後の9月まで、自分で2か月余りかけてウォルデン湖北岸の森の中に建てた小屋で野草を食べ、魚を取り、自然を友として生活し詳しい日記を書き晴耕雨読の日々を過ごした。8年後、このときのことを書いた本が「森の生活」として出版された。これは18章からなり森の生活を具体的に記しつつ彼の思想を集大成したもので人間は衣食住の必要最低限の生活をすることによっていかに心の豊かさを得ることができるかを示す。彼は「深く生き、人生の真髄を吸い尽くすため詩情溢れる記録は個人の尊厳を描いた書でありその後アメリカ人生活に最も大きな影響を与えた本のひとつとして愛読されている。また人頭税不払いのため投獄されたことによることがきっかけで個人の尊厳を尊重する活動も行っていた。彼は若いうちから測量術と植物学をマスターしていたが30代になってインディアンの民俗学的研究もはじめた。残念なことにこの「詩人哲学者」は肺病のため体が弱っており、出版準備中に45歳で死んだ。存命中に出版された全20巻に及ぶ著作は彼が大作家であることを示している。

ホイットマン(18191892年)
ホイットマンの詩は詩からぬリズムでルポ調の語り口を用いて、野性的で官能的であることが特徴である。ニューヨーク州ロングアイランド出身で教育も満足に受けられないまま11歳でブルックリンの法律事務所で働く。このころから文学を読むことの喜びを知り始めたが翌1831年に新聞植字工見習となりほぼ20年に及ぶジャーナリスト生活が始まる。奴隷制問題などをめぐって激しい抗争の渦中にあった当時のアメリカ社会の中で、ホイットマンは一貫して民主党進歩派の立場を守ったとされる。彼の文学における思想的にはゲーテ・ヘーゲル・カーライルらに心ひかれ、特に発表間もないエマスンの超絶思想に共鳴していたとされ、自身が活字を組んでつくった詩集に関してはエマスンからアメリカで生まれたもっとも驚くべき作品という賛辞を得た。13の編の詩を含む『草の葉』は内容も詩形もアメリカの詩を英詩から独立させる記念碑的作品であった。ホイットマンは健康な肉体を賛美し、タブー視されていた性愛も遠慮せずに堂々と歌っている。肉体と魂はきりはなせないものとしてとらえ、社会的制約にとらわれずに霊肉一致をたたえた。しかも1行の音節数とか韻とか無視して型にはまらない自由詩をつくりだしたのである。

ジェイムズ(18431916年)
ヘンリ・ジェイムズはアメリカとヨーロッパの対比を描く国際小説を得意とする。彼の作品は長年ヨーロッパに住んでヨーロッパ的考え方を身につけているアメリカ人とアメリカで育ってヨーロッパを旅行中の無邪気なアメリカ人との間のあつれきを主題にすることが多かった。ローマに絵の勉強に来ているアメリカ人を主人公とする処女小説『ロデリック・ハドソン』からこの主題は扱われている。ジェイムズはたくさんの有名な小説を世におくりだした。まず彼の文名を高めたとされるのは「Daisy Miller」である。この作品ではアメリカ人の最大の美点は無邪気さであり裏のない明るさであることを表している。この点を忘れてヨーロッパ人の眼から非難する同国人のいやらしさを描いた。そして、最初の傑作とされる「貴婦人の肖像」ではヨーロッパにいってあらゆるヨーロッパの可能性を眼にした「無邪気な」アメリカ娘が経験を通じてひとまわり大きく賢い人物になっていく様子が描かれている。ジェイムズは他にも短編小説も数多く出版したり、40代には劇作も手掛け幅広く活動していた。この時期の小説では「メイジィの秘密」や英文学史上最も奇怪な物語のひとつとして「ねじの回転」もよく知られる。

ドライサー(18711945年)
ドライサーは一家の貧しさもあり16歳で社会にでて幅広い社会経験を培うと同時に、現実社会を科学的に把握する方法論を学んだとされる。1900年、中西部の田舎からシカゴにでてきた貧しい娘がニューヨークで女優として成功するまでを描いた『シスター・キャリー』で作家デビューを果たし、1925年には自身の代表作となる『アメリカの悲劇』を発表した。貧しい青年が出世のために恋人を殺害してまで上流階級に登ろうとするが結局は環境に弄ばれ死刑になるまでを描いたこの作品はアメリカ自然文学の最高傑作とされた。ドライサーは貧乏人の子として50代半ばにしてやっと大作家として認められた。彼の小説は決してよみやすいものではないがその細部を描き出す写実的な文体によって20世紀初頭の最も重要な作品になりえたのである。

フロスト(18741963年)
サンフランシスコに生まれ、イングランドに移った後、ダートマスやハーバードに在籍し学生時代からさまざまな詩を書いた詩人。さまざまな仕事を経験したが詩をかくことが彼の楽しみとなっていた。フロストの処女詩集「少年の願い」では草刈りなど農村生活の息吹きを抑制のきいた語り口調で語り、アメリカ人のもつもっとも基本的な倫理観を根差したフロストの詩の特徴がよく表れている。翌年、同じくロンドンで出版された「ボストンの北」はパウンドから高く評価され、これで農民詩人フロストの名がアメリカでも知られるようになった。1945年、41歳のフロストはアメリカに住み40年にわたる彼の後半生は輝かしいもので、アメリカ人の心をアメリカの言葉で歌ったフロストの詩は全国民に愛唱された。

パウンド(18851972年)

パウンドの作家人生は23歳の年にアメリカをでてヨーロッパにわたり「消えたともしび」をヴェニスで自費出版したことからはじまる。詩集や評論集を毎年のように出版し、25歳という若さで彼は有名人であった。一人っ子としてそだったにもかかわらず彼には親分肌な性格があったといわれる。当時Imagismといわれる運動がおこっておりこれはヒュームの美学論に基づく、反ロマン主義の自由詩運動であったが、日常の言葉を使い、新しいリズムをもった詩形をつくりだし、かたく明晰な文で自由に主題を選んで書くことをモットーにしていた。パウンドは英米の詩人に働きかけ「写像主義者」を出版した。一方アメリカに向けてはシカゴの詩誌を通じてエリオットをはじめ、ジョイス、フロスト、タゴールらを紹介した。こうしてパウンドは20世紀英詩に他の誰よりも大きな影響を与える人物となるのであった。第一次大戦が終わるころパウンドは批評家からも悪評を受けるようになりイギリスに幻滅をかんじるようになったといわれる。このような気持ちの時に書いた『ヒュー・セルウィン・モーバリ』でこれはエリオットの「荒野」を超える作品とされた。そしてのちに「荒野」はパウンドにより大幅に手を加えられ著者から20世紀最大の名作をささげられた。

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